泣けてもいい
今日は親戚の法事があった。コロナのこともあり、行くことはやめたのだが、お供え物を持っていきたいと祖母が言うので運転手役。結局行くんなら法事にでればいいのでは、と言ったが聞く耳持たず。
法事は曾祖母の27回忌だった。曾祖母の記憶はあまりなく、お見舞いにいったら寝ているおばあさんがいたことと、葬式の時にでたお饅頭がおいしかったことしか記憶にない。なんとも残念なひ孫だ。
親戚といっても、ごく家族しか集わなかったが、話は大叔父が法事中泣いたことでもちきりだった。闘病中の大叔父は普段はほとんど寝たきりでわたしも顔をずっと見ていない。
あんなに声をあげてわんわん泣くなんて、ねぇ。
その場にいたひとはみんな、驚いたねぇと口々に言い笑っていたが、わたしはいいなぁ、と想った。
人前であろうとも、堂々と涙する。
できるひとがどれだけいるのだろう
それは許される家族の前だからできたことなのか
きもちの高ぶりが色々なものを上まったのだろうか
おとなだから、とわたしたちは怒ることや泣くことをがまんしがちだ。
感情はできるだけコントロールしたい、自分を整えなきゃ、と想うことは多くなる。
だけど場面や状況に合わせようとして、自分を置き去りにしなくてもいいのではないだろうか
涙がでたり、怒りが湧いたり、そういう機能をにんげんは持っている。
おとなと呼ばれるからそれを手放さなくてもいいのだ。
もちろんここじゃない、と思えばそれを止めてもいい。
でも大切なのは、怒っている、悲しんでいる、焦っている、といった感情を持っている自分に気づくことではないだろうか。ごまかしきれない相手、それは自分自身だ。
わたしは1年前、うまく泣くことができていなかった。
にんげん疲れると、涙もでないらしい。泣くエネルギーがなかった、ともいえる。
泣けるひとが、羨ましかった。涙がでてないからといって哀しんでいないわけでもない。でも涙がでないのだった。
そんな自分の状態に気づいたとき、そうその時、涙がすっと流れた。
ダイヤルがカチっとはまったのかもしれない。
それから仕事を辞め、ひたすら休み、自分の哀しみを探る時間を費やした。
本を読みながら、自分の哀しみの基をひとつ、またひとつと掘っていく作業をひたすらに続けた。
今、哀しみが減ったわけではない。喪失は時間とともに消える傷もあれば、新たにできる傷もある。傷が癒えていくことの罪悪感もだ。
それでも、胸の中へ深く掘っていき、ちいさく湿ったかなしみを見つけたとき、わたしはそれを抱きしめるのだ。
哀しみとともに、今日も生きた。
それでも、生きていい