死を想う時、猛烈に生きている。
「死について語り合う会」を開催してから1ヶ月💐
「死についてみんなの話が聴きたい!」と叫んだわたしに、
「あなたがやるなら参加してみるよ」と言ってくれた人がZOOMに集合し、それぞれの想いを自分のペースで話していった。
みんな話したいタイミングで話したいことを話す。
誰かの出した言葉を、受け取ってまた別の誰かが言葉を投げる。
環境も経験もバラバラの人たちが集まった。想いもみんな違う中で、死について話しているのに、結果聴いていくと、みんな「どう生きるか」を話している。誰かの死から与えられた衝撃が、自分のこれまでを壊して、また自分を形作っていく。
「わたしたちは生に執着してる」って思うと参加した人が言った。
「『死にたい』もさ、本当は生きていたいけど苦しい」じゃないのかな。」
生まれることの奇跡、この瞬間まで生まれてきたことの奇跡を身体は知っているのだと。
「死についてのお話し会」を開くと伝えた時に、
きっと「重いなぁ」や「辛くなる」と怖さを感じたり、
「そんなこと、他人には話せない」って思ったり、いろんな気持ちが湧いてきたんだろうなと思う。「参加できて嬉しい」と伝えたけど本当はどきどきしながら参加したという方も。
今もこれを読んだ人には、穏やかな気持ちでない人もいるかもしれない。
でも、その湧いてきたものがどんなものであっても、それはその人の思う「死」なんだと思う。会に出ようが出まいが、わたしたちの人生は続く。そして最後は必ず死を迎える。生きている限り、確実に起きる。
わたしたちは一人残らず当事者で関係者だ。
このお話し会が終わってしばらくして、坂爪さんと再会した。坂爪さんは以前瀬戸での茶会にきてくれた時に逢ってから2年ぶりくらいだ。
あの時も、死の話をしながら、「生きる」に向かっていくように感じたことを想いだしながら、オンラインでお話し会をしたと伝えた。坂爪さんと会場へ行くとそこに居た女性2人が待機していた。そこでなぜかわたしが死のお話し会をした話をずっとした。坂爪さんはその後次の土地へと旅立ち、わたしも早々に帰宅した。その場であった人とも特に連絡先も交換せずに別れた。
その日の夜、坂爪さんから連絡をもらい、話したがっている人がいる、と連絡をくれた。昼に話したAさんだった。Aさんとは30分くらいしか話していなかったけれど、死を語る会にとても興味をもってくれて、なぜ興味を持ったのか、かなり深い想いまで話してくれた。わたしもお話し会でどんなことを話したか、感じたか、なぜ死を語る会を開こうと思ったのかをひとつひとつ伝えた。数時間前にちょっと話した相手に、ここまで丁寧に真正面から向いてくれたAさんは、なんてすごい人だと思った。
自分もお話し会を開きたいかも、と思っていたAさんは、会話を進めてしばらくしてから、まだこのタイミングではないと気づいた、と教えてくれた。それでもわたしは嬉しかった。お話し会を開いても開かなくても、Aさんが言葉にしづらい想いを一生懸命出してくれたこと、見ず知らずの相手と対話しようと言ってきてくれたこと、お話し会をやってこんなことが起きるのかと嬉しい驚きだった。
死に向き合うのは苦しい。辛い。痛い。目をそらしたくなる。逃げたくなる。許せない。
色々ぼろぼろと出てくる。そんな自分と参加者の人をみて、
「あぁ猛烈に今生きているんだなぁ」と思った。
お話し会をしなくても、別に命の価値は変わることはない。
やらなきゃいけないことでもないと思う。でも、ただその意味のないことにまっすぐに向き合って共にすごしてくれたひとがいることは、わたしの中に大きな芯ができたようだった。
そして今も猛烈に生きている。