きらいという思い込みは好きだったからだった
”ひとを観る”をライフワークにしている全く違うふたりから、
「あなたはにんげんがすきだね」と言われた。
言われた時は、「いや、うーん」と反論したくなった。
ずっと、どんな時もこころの奥底には<にんげんなんてきらいだ>という感情が
ずしんと在った。
口に出すことでもないので、周りのひとに言ったことはほぼなかったけれど、
にんげんってなんでこんなにきたないんだろう
と、想うことは頻繁にあって、ふいに表に出てきて苦しさに変わる。
個人ではなく、”にんげん”という大きい括りに対して
漠然と怒りを持っていた。
じぶんがにんげんなのも嫌で、
にんげんが周りにあふれているのも嫌だなぁ、と思っていた。
「あなたはにんげんがだいすきだね。目線の動きですぐ分かるよ。」
そう言われた。
・・・そうなんだ。わたしはほんとうはにんげんが好きなのか・・・?
じゃあなんでにんげんがきらい、と思い続けてきたのだろう。
*
誰かが傷ついているのを見るのが、とても苦手だ。
ニュースを見るのも胸がきゅーっとなる。
誰かを傷つけた誰かは、そのまた誰かや何かに傷ついたこれまでがあって、
その環境じゃなかったら・・・・この社会とは違っていたら・・・と
想うと、哀しみの行先がなくなって、
最終的に「にんげん(というか社会全体)」に対して怒りを持っていた・・・・気がする。
だからといって、いい意味でも悪い意味でもなにかアクションに移すことはなく、静かに小さく世界を呪って、ただ生きてきたのだけれども。
にんげん嫌いだと思い(こんで)いながらも、
にんげんが知りたい、分かりたいがどこかにあったわたしは、
にんげんだらけの場所=福祉の世界に身を置いている。
右を見ても左を見てもにんげんだらけ。にんげん観察し放題な現場で、わたしはひとの感情というものをすくいとって観るということをしてきた。
出逢えば出逢うほど知れば知るほどに、みんな魅力と不器用さを持っている。
みんな強さと弱さを持っている。
みんなそれぞれ苦しみと歓びを持っている。
にんげん嫌いでも、見続けると気づくことがたくさんある。
「いや、きらいだったらそもそもそんな風に観察とかしないでしょ。
逆に興味全開なんだよね。」
・・・そっか!そうなのかぁ!
じぶんが今まで持っていた思い込み。角度を変えてみたら、まったく反対だったんだなぁ。
そしてわたしはこの”にんげんぎらい”をずっと色々の理由にしてきた。
”にんげんぎらい”だから、ひとと話がはずまない。
”にんげんぎらい”だから、集団生活が息苦しい。
”にんげんぎらい”だから、他人と相いれない。
違った。嫌いとか好きとか関係なく、わたしが選びたい様に選んできただけだった。
好きや嫌いにこだわる前から、ずっと当たり前に愛してきていた。
怒りもその表現の一つだったのかもしれない。
*
これからは”にんげん好き”をそのまま認めていけるといいな。
書き終わってよく考えれば、これだけ”にんげん”という文字を打っていて嫌いだったら画面を見ていられないな、と気づき苦笑い。