風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

役割

ずっと奥にしまいっぱなしになっていたハハの写真を整理している。

わたしが知らない時間のハハの顔。

友人と過ごしている時のハハの、大きな口を開けてガハハと笑う顔が残っていて嬉しい。

 

生前よくハハに伝えていたことがある。

「この家のハハとしてじゃなくて、えーちゃん個人として生きて」

 

我が家では祖母は小学生の時から名前で(「おばあちゃん」って呼ぶと老け込んじゃいそうだねと思ってみんな止めた)、ハハの事もいつしか「おかあさん」から名前で呼ぶようになっていた。

 

どんな家庭にもきっと言葉にしにくいもやもやがあると思うけれど、我が家にもどよんとした、黒い空気が漂っていて、それに息苦しさを感じたりもしていた。

ハハは彼女なりのカタチで家を背負って守ってきた。それはすごい。でも、時々はその荷物をはずしてもいいんじゃないか。

自分のやりたいことをやって、自分の好きなことをしてほしい。

役割のない自分を持つことを許してあげてほしい。

と娘は願っていた。

それは未来の自分への言葉だったのかもしれない。

「やりたいことを誰かを理由に止めて、それに対する思いをこころの中で押し込めておきたくない」という願い。

 

結果的に、ハハはしごとにたくさん時間をかけ、それに悩んだり笑ったりという人生を過ごした。悩むのが趣味かというぐらい、悶々としたり円形脱毛症も作ったり、慌てて失敗もしたり、周りがびっくりするぐらいのこだわりをみせたり。猪のように前だけ見てずっと全速力で走り、ふわりと旅立った。

その生き方がよかったのか、わるかったのか、ハハ本人にしか分からない。

 

でも今は、

ハハが母であることもたいせつに過ごしてきてくれていたと感じる。せわしなく動き回る合間にもちゃんと目線を送ってくれていた。

癇癪もちのこどもを育てて不安で大変だったろう。

わたしは子育ての経験がないけれど、自分を育てるのは想像しただけで白目になりそうだ。

 

 

もしいつか、だれかのいのちを育てることがある時は

あの時のハハの気持ちを想像できるのだろうか。

すこし、楽しみかもしれない。

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