風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

哀しみを奪わないで

2020年もあと1か月。あっという間に過ぎていった感じがする。

それでいて長かったような感じもする。

いや、毎年言っているような気もするな。

にんげんの体感って時にすごく繊細で、時にめちゃくちゃいい加減だなぁ。

 

 

 

この一年で感じたことのひとつ、

 

哀しみに寄り添うということの難しさ だ。

 

2019年に母が旅立ち、この1年はぽっかり空いた穴を実感したまま過ぎていった。

そんな中でしんどいなと思う瞬間の一つが

”哀しさを共感される”、という時。

 

世の中では

「共感する・分かち合うことが大切」とか、「悩んでいたら相談しよう」とか、そんな言葉をよく耳にする。

特にコロナに影響もあってなのか自死のニュースもなんだか多く感じられた。

 

 

苦しいとき、辛い思いをしている時、誰かに少しでも分かってほしいと思う気持ちが湧く。すがるような思いになったりする。

 

母が亡くなって、知人や友人から多く声をかけてもらった。

「辛かったね」「かわいそうに」「がんばって」

どれもわたしを想ってかけられた言葉だ。こころから言ってくれたのだろうと解る。

 

でもその言葉がほしいわけではなかった。

 

別の人は

「辛かったね。わたしもそんな思いをしたよ。わたしの時は・・・・・・・」と話をした。「わかるよ、あなたの気持ち」と。

寄り添ってくれようとしている。

 

でも、

わたしにはそれを聞くのがつらい。

誰かの辛かった話を聴いたら、それに応えようとしてしまうからだ。

共感しようという想いから話してくれた内容も、わたしにはしっかり聴かないといけないという意識で頭がいっぱいになり、

床すれすれの低空飛行の中、重量オーバーになって落ちていくヘリコプターのようだ。それでも旋回をやめないようにプロペラを回し続けて。

 

ひとと少し離れて、わたしは呼吸を取り戻した。

 

 

 

誰かの哀しみを奪ってはいけないな、と想う。

哀しみ合戦をしていても、霧が晴れていくことはきっとない。

共感って、お互いに哀しさをぶつけあうことではないし、さらけ出せばいいということでもないと想う。

優しさという刃をわたしは振りかざしていないだろうか。理解しようとしているつもりで、相手を想いを強制したことはないだろうか。

 

生きているひとは、必ず哀しみと出逢う。辛い想いをしたことのないひとなどきっといないだろう

余裕があればいいけれど、笑顔の下では汗だくで涙も拭いたが残っていて、そんな中で呼吸を続けている

 

哀しんでいるひとを見たとき、声をかけて多くを語るのは、きっとその哀しみを見続けることの苦しさがあるからかもしれない。早くなんとかしないと、自分も辛いから、それに飲み込まれそうになるから、って。

 

哀しみに無理になにかを付け足したり、変えようとしなくてもいいのかもしれません

 

だれが哀しんでいる時、そのままそっと見守っているように

遠くではない場所で 信じて待っている 

そんな風にいたいです

 

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