風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

そのことばがすべてだと思うなよ

夜のイオンで食材を買って、隅っこにある花屋さんでカーネーションに一目ぼれ。

るんるん気分で車を降り、ステップジャンプでドアの前まで、

前ま・・・

ブン!   ドサっ。ぐちゃ・・・

 

遠心力で吹っ飛んだ買い物袋の中で15分前に購入した卵パックの6個ぜんぶ割れていた

 

👼

 

明日早いが、この卵を救ってやらねば寝れぬ。と金の延べ棒のようなぶっとい卵焼きができた23時です。

浮足立ってる時って足元が不安定なんだなぁ・・・。

 

 

祖母の接種に同行しました。

緊張すると祖母は準備が早い。2時間以上前から待機し、はよいこ、もう行かないとと繰り返す。その度にわたしはまだ早い、まだ早いと繰り返す。

 

そして会場についてからもおしゃべり祖母は見知らぬ人にも話しかける。会場に入る列で後ろに並んだおばちゃんと自然に話し始めた。

 

風もあるし、距離は保っていたけれど、ここコロナ対策のための場所だし、気にする人もいるだろうなと思い、

「あんまり大きい声でおしゃべりせんで待っとこね」というと、

おばちゃんは「いいのよー。不安な時はね、しゃべりたいのよ老人は。そうやって気を紛らわせてるのよ。」

と言ってくれた。

 

あぁそうだよなぁと少ししゅんとした祖母を見て想った。

心配だとか大丈夫かとか、言葉にしているわけではないけれど、いつもより顔がこわばっていたし、不安だったんだよなぁと。

不安な時、心配ごとがある時、ひとはそれを口に出さないことの方が実は多い気がする。

職場では知的障害をもつ利用者さんがイライラしたり、物に当たってしまったり、「帰りたい」を連呼することがある。なんでイライラしているかを言葉で伝えることは少ない。けれどそれは表現で、内側を見てみると、お腹が空いたことだったり、疲れていたり、不安なことがあったりする。

「帰りたい」というから必ずしも帰宅したいわけではなく、不安な気持ちを解消したいという表現が「帰りたい」だったりする。

 

でも障害の有無に関わらず、ほとんどの人にとって、言葉がすべてを説明しているわけではないのだ。

普段言葉を扱ううちに、ことばをすべてだと思いすぎていたなぁ。

わたしたちはたくさんの表現を持っている。言葉はそのうちのたったひとつ。

表情も目線も声の高さもイントネーションも、体の向きも指の動かし方ひとつも、表現だ。言葉に頼っている時は視えてないところもきっとあるし、無意識に感じ取っているところもきっとあるだろう。

 

言語がない世界だったら、相手とどれだけ対話ができるのだろう。どれだけ相手に伝えられて、どれだけ相手を受け取れるのだろう。

 

 

人間はフクザツでめんどくさくて、おもしろい。

 

 

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もやもやもやしな自分

先日、やっとこさ引越しをした。とてもいい気分のスタートも束の間、インターネットが使えず1日、2日と過ぎた。いや、自分のせいなのだけど、インターネットないって不便に感じる。

こどものころ、どうやって過ごしていたかな?

制限があると、なぜかやりたくなるのは人間の習性のひとつなのか。

ブログが書きたいのにー!と欲がかき立てられたので、それもまたおもしろく。

そして朝のドドールにてこれを投稿しています。

 

 

自分が思っていたより、ブログは自分の内側にしっかり存在していたようです。

 

そして書けていない時にも読んでくださる方がいることに感激です。涙がでた。今日も世界はわたしにやさしい。

 

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最近なんだか、もやや〜っとしていて、すっきりしないなと思って過ごしていた。

不安になっている自分に気づいたらやることは、

その拡がった不安を細かく観ること

 

その不安はどこからきたのか

何を見て、何を聴いて、ザワっとしたんだろう

何に引っかかったんだろう

どこに傷ついた?

 

ひとつひとつ手に取って眺めてみる。

答えを出さずに、ゲームの中のキャラクターが障害物に引っかかってるぞ、という感じで。

…なかなか感情が揺さぶられるけれど。

 

•ひととひとが攻撃しあうこと

•納得感がないまま、決断を迫られている感覚

•みんなそうだから、と耳にした時の違和感

•それを選んで本当にいいの?という迷い

 

ぽこぽこと吹き出てきた。

そうか。こんなことに引っかかっていたんだ。

わたしはわたしを置いてきぼりのままで、歩きたくなかったんだなぁ。

未来のことが分からない中で、ひとつを選ぶのは簡単なことではない。

正しいを選ぶと、不正解に怯えてしまう。

わたしの答えがしっくりまとまるまでは、うろうろ迷うこのままでいよう。

 

そして、自分と違う答えを持っているひとがいることも、そのままにしておく。

怯えたり、怒ったりもせず、そっかそっか、と。

きっとこのブログを読んでいるひととも、〇〇のことは意見が近いなー、▲▲のことは違う見方だな、ということってたくさんあるんだろう。

だからといって、金輪際サヨナラ!鼻息フン!ではなくて、違いを感じるだけでいいし、一時的に離れて、また再会してみてもいい。

…そこに涙する自分もよしとする。

 

不安を感じる度にわたしは自分の芯を知る

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わたしたちのいま

紫陽花が色づき始めているのを見るのが楽しい。ほんとに少しずつ、でも確実に変わっていくのだ。

時を同じくしてサボテンの花が咲いた。祖母のお友だちがわざわざ見せるために持ってきてくれたのだ。サボテンの花は1日しか咲かないから、せっかくだから見てね、と。

ピンクが優しい花だった。

 

がんばって2日咲いて、3日目には見事に萎れていた。と、思ったら別の子をまた持ってきてくれた。「この子も咲いたよ!」と。

生き物は淡々と変化する。土の中でじわじわ根を伸ばして、ぐんぐん茎を伸ばして、ぱぁっと咲いたと思ったら、萎れて枯れて、痩せ細って、、そしてまたぴょこっと芽を出す。その繰り返し。

先日の昆虫の速さにも驚きだけど、植物のスピードもにんげんとは全然違う。

 

momonootayori.hatenablog.com

植物は10年、100年単位で生きているものもある。どんな感覚なんだろうな。

いきもののいのちの長さはなんでこんなに違うのだろう。

 

 わたしたちのことは、植物から見たらどんな風に見えるのだろう?

生も死も、にんげんのように抵抗することもなく、こだわることもなく、受け入れているのかな。当たり前すぎて受け入れる、ということすら感覚がないのかな。

 

booklog.jp

稲垣栄洋博士の二冊目を読み始めた。とっても読みやすく、シンプルな言葉で綴られた生き物のの生と死。今、読むべきタイミングのような気がしている。

 

すべての生き物は「今」を生きている。大切なのは「今」である。

今、命があるのだから、その命を生きればいい。

ただ、それだけのことである。

(稲垣栄洋著「生き物の死にざま はかない命の物語」27人間より)

 

 

じぶんがただの生き物だということ、忘れちゃだめだな

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職場で毎日利用者さんと近くを歩いている。

周りは畑と山で鳥のさえずりと学生の体育の授業の笛や先生の号令が聞こえる、とてものどかな場所。ゆっくりペースなひとやずんずん歩くひとと一緒に四季の変化を見るこの時間がなんだか好きだ。

  と、思っていたら梅雨入りしてしまった・・・

 

 

先日歩いていて、アリの大群を見つけた。

コンクリートの隙間をずぅーーーーーっと列になり移動していた。

歩を進めていけど、まだまだ先頭は見えない。

このアリたちはみんな同じ一族なのだろうか。日本で言う、「さとうさん」ぐらいの人口いるんじゃないのかなぁ。それとも縄張り?が隣同士なのか。もっと広くて土が柔らかいとこにいけばいいだろうに。

 

アリたちと並行してゆったり歩いた。

その時ふと、このアリたちはこの目線から自分を見ることはできないんだよなぁ」と想った。アリはアリの在るべくして、それぞれの役割を持ち、寿命まで淡々と生きる。

働きアリの寿命はおよそ1~2年だそうだ。短い。そりゃあせかせか移動するな。

 

せかせか動いているように見えるアリも、自分たちの動きが速いとか、ひとによっては見たらゾワっとしちゃうとか、そういう風に見えるなんて思いもしないだろう。これはにんげんの視点だからだ。

 

じゃあにんげんもおなじように、空のものすごく高くから見てみたら、どんな風に映るだろう。個々は点くらい小さかったら、いじっぱりとか、せっかちだとか、そういうことなんて見えないくらいだろうなぁ。

どちらの視点が正しいとかそういうことではなくて、視点を変えれば当たり前も当たり前ではなく、大問題と思っていたことも、ちいさな規模なものに感じられるかもしれない。価値観は自由に変えられるものなのだ。

 

 わたしはよく落ち込む。拗ねるし、執着したくないと願えば願うほどしつこく意識し続ける。そんな自分を見て嫌になることも日々あるけれど、

そんな時、空から地上の小さなわたしを視る。

情けない顔をした女がぽつんとちいさな部屋に座り込んでいる。

 

だいじょうぶ。

 

わたしがわたしを視つめる時、孤独の中にあたたかさが生まれる。

 

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何も贈れなくとも、できること

日付が変わってしまったけれど、母の日でした。
車で花屋さんの横を通ったら、歩道を花束を抱えた男の子が小走りしているのが見えた。
誰かを想っている姿ってなんだか愛おしく感じるな。

今まで母の日は、何かをしたことがなかった。ハハが義理の母(わたしの父方の祖母)に、何を渡したらいいかを一緒に考えるのが定番だった。

「去年は、何にしたっけ?」とか、「困ったなぁ、間に合わないよー!」とか、そういう事を言い合っている時間の方が記憶に残っていたりするんだなぁ。


さて何ができるかなと考えた今年の母の日。
ハハが大切に感じていたひとたちをじっくり視ることをしてみた。
特別に何かするわけでもなく、見るそれだけ。

チチの白髪の数は増えたなぁ…生前のハハの事をわたしと話したがっている。自分の中で大切にしたいんだよなぁとチチを見て改めて想った。
ハハのことを話すときの目は淋しそうにやさしく垂れる。
祖母は寝起きの髪がくしゃっとしているなぁ…たくさん寝るようになったけれど、喜び方がちょっと分かりにくいけれど、根っこはとても素直なひとだ。
草餅のことを柏餅と言い間違えてるけど、つまりはおいしかったと言いたかったようだ。


ハハは空から見ているのか。
どうやってこちらの世界が見えているのか。
死後の世界があるのかはわたしには分からない。
今の間は、わたしの眼にたくさん記憶を刻みたい。ハハが大切に想っていたひとは地上のにんげんから見たらこんな風だったよ、と。

いつかおんなじ場所へ行くことがあったら、この景色を映写機にでも写して一緒に見たいなぁ。
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去年の母の日は、

今日は、母が産んでくれた自分自身を大切にする日😊化粧水をあびるようにつけることもいいのだ、今日は✨

と、呟いていた。
今年は朝のお味噌汁の具材増し増しで作った。自分の身体を大切にしてみよう。
こういう機会があると、言葉にしよう、実行しようとおもえる、ありがたいなぁー。

脳と身体の体験記(恥日記)

なんてこった。詐欺にあった。

 

・・・と、慌てふためいた。(勘違いでした)

 

引越を控えてもろもろの手続きを進めていて、最近はばたばたとしておりました。そんな中携帯にメールで連絡で「支払いについての手続き案内」が来て、手続きってどんどん便利になってきてるなぁ、なんて思いながらポチっとして、夜ふと連絡がきた番号を調べて、検索結果に「詐欺」の文字が載っているのをちらっと見て(後でよく見ると別の番号の口コミ情報だった)、

「さ、さ、詐欺ーーーー!!!!!」

 

と絶叫し、車に飛び乗り、アパートへ。パニックのまま銀行の夜間コールセンターへ。

電話を掛けながらもう一度番号確認すると、ちゃんと正規の会社からの連絡で、別にお金も引き出されたりとかしていない。

・・・お金取られてないの???

いったんコールセンターの電話を切り、電話番号を20回ぐらい調べると、正規の会社の名前がすらすらすらと出てくる。

 

詐欺にあって、ない。

 

安堵と恥ずかしさと情けなさとで脱力しました。

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花を見て落ち着こう

 

 

落ち着いたのでブログを書いているわけですが、この詐欺にかかった(と思い込んでた)時間のこころの動きと身体の変化を思い返すと、なかなか面白いなと想いました。

 

①詐欺にかかった(と思い込んでる)に気づく→全神経がスマホ画面に集中。頭の中が真っ白。そしてものすごくぐるぐるする。一気に体温が上がる。息するのも忘れそうな勢いで家を飛び出す。

②車に乗って移動→はやく確認をしたい気持ち500%。信号よ青になれと念力を飛ばす。でも頭の片隅に、こういう時こそ安全運転しないと絶対にダメ(教訓)と叫び続ける自分の声も聞こえていた。そして走馬灯のように過去のお金の想い出(初任給とか)が頭の中を駆け巡る・・・泣きそう・・・え、今日から無一文に・・・?

夜で気温も下がっていたが、上着を着る余裕なし。とにかく熱い。

③カスタマーセンターに電話する→焦ってしどろもどろで話せない。おねえさん、早くなんとかしてください、わたしのお金を・・・どうか・・・お願いします・・・

④勘違いに気づく→あれ?なんか間違ってないかも…え?え?え????頭がまっしろ(2回目)。ほんとに勘違いなのか疑って、どれが本当か脳が処理できなくなる。間違いに気づくとまたほっぺが熱くなる。恥ずかしさに発狂する。

 

にんげんって、思考(脳)が身体をコントロールしてるんだなぁっと体感できてしました。寒い夜でもパニック中は身体がぐわっと熱くなって、他の情報を処理しようとせず、集中しようとする。(安全運転できてよかった!)

どうして身体が熱くなったりするんだろう?子ども科学電話相談に聴けたらよかったな。

www4.nhk.or.jp

 

早とちりもそろそろ卒業したいですが、性質上これからもたくさん失敗しそうです。とりあえず生きてるし笑えてるし、よし。

 

コールセンターのおねえさん、いいひとでした。恥ずかしすぎて「勘違いでした、すみません」と伝えようとしたら、違う担当の人で(当たり前)、わざわざ内線繋いでもらってかえって手間ひまをとらせてしまった・・・。夜中にほんとうに何をしとるんや・・・。

 

 

読んでいるみなさまも詐欺にはお気をつけください。

あと勘違いにも・・・

早まらずに確認も忘れずに・・・

 

このブログを、なにかのきっかけで見つけ、読んでいるひとがいるということに、書き始めて1年近く経つというのにいまだにどきどきしている。情報の海の中で浮かんでいる、ちいさな葉っぱのようなこのブログに目を通しているあなたに、目には見えない交差点でばったり逢っているのですね。そんなあなたがいるだと想うとパソコンに向かう気持ちもちょっぴり違うのかもしれません。Wifiを発明したひと、インターネットのプロバイダー業者の方、わたしのパソコン売ってたひと、はてなブログつくったひと、諸々諸々も、今のわたしのブログの関係者のみなさんです。自分が書きたくて書いているのだから、一方通行でもまぁいっかと思っていましたが、こうして読んだり・読まれたり、コメントを残したりと、やりとりがあるって想像よりも人間の温度が感じられておもしろいですね。

 

 ちいさなアパートで暮らしている。実家から車で15分以内の、ぱっと思いついたら行き帰できる距離。住んでいるところはそこ、夕飯を食べる場所は実家。

「実家でご飯を食べる」と言うと「いいね、楽だね」という人も結構いる。そういう人は実家だとごはんがさっと出てくるのだろうか。実際は実家でのご飯担当はほぼわたしで、正直楽という感覚は少ない。が、うまくできたとガッツポーズがごく稀に湧いてくる日があり、それを楽しみにフライパンを廻す。

 

実家の家事と、アパートの生活の往復を何年も続けている。自分でも非効率だと思うけれど、それでもこのアパートはわたしには必要な場所だ。実家は古いせいか祖母のテレビが聞こえて落ち着かない。大音量なのは祖母が悪いのではないが、わたしの耳には合わない。無音の時間が要るわたしにはひとりっきりの空間が必要なのだ。他にも家族と感じ方が違うことで実家にいる時間をある程度限定して過ごしている。

 

周りの情報を取り込みすぎるとちょっと息が乱れていく。自分の呼吸のペースを整えていく、そんな場所があることがとても大切だ。

友人と話をしていて、「ずっとにんげんは卑しくて嫌いだと想っていたけれど、こりゃあにんげん好きなのかも、にんげんをもっと知りたいのかも…!」と言ったら、「だろうね。やっと認めたんだね」と笑っていた。15年近い思い込みの雪解けがなんとなくできている。 にんげんを知りたい欲もありながら、でも情報が多すぎるとさっとひとりに逃げたくなる。そんな絶妙なバランスを持っているこの性質は、自分の事だが気難しい。だけど、ちょっぴりおもしろい。

 

きっと適度な孤独を望みながら、にんげんと関わることを続けていくのだろう。ひとりを満喫しながら、ひとに逢いたくなったり、煩わしく感じたりして、わたしは生きるのにずいぶんと忙しい。

 

 

この先、生き方もだれと関わるのかもどんどん形を変えていくのだろう。それでも自分の感覚を感じることを止めずに居たい

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 (今日のまとまりない文章もよしとする)