風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

職場で毎日利用者さんと近くを歩いている。

周りは畑と山で鳥のさえずりと学生の体育の授業の笛や先生の号令が聞こえる、とてものどかな場所。ゆっくりペースなひとやずんずん歩くひとと一緒に四季の変化を見るこの時間がなんだか好きだ。

  と、思っていたら梅雨入りしてしまった・・・

 

 

先日歩いていて、アリの大群を見つけた。

コンクリートの隙間をずぅーーーーーっと列になり移動していた。

歩を進めていけど、まだまだ先頭は見えない。

このアリたちはみんな同じ一族なのだろうか。日本で言う、「さとうさん」ぐらいの人口いるんじゃないのかなぁ。それとも縄張り?が隣同士なのか。もっと広くて土が柔らかいとこにいけばいいだろうに。

 

アリたちと並行してゆったり歩いた。

その時ふと、このアリたちはこの目線から自分を見ることはできないんだよなぁ」と想った。アリはアリの在るべくして、それぞれの役割を持ち、寿命まで淡々と生きる。

働きアリの寿命はおよそ1~2年だそうだ。短い。そりゃあせかせか移動するな。

 

せかせか動いているように見えるアリも、自分たちの動きが速いとか、ひとによっては見たらゾワっとしちゃうとか、そういう風に見えるなんて思いもしないだろう。これはにんげんの視点だからだ。

 

じゃあにんげんもおなじように、空のものすごく高くから見てみたら、どんな風に映るだろう。個々は点くらい小さかったら、いじっぱりとか、せっかちだとか、そういうことなんて見えないくらいだろうなぁ。

どちらの視点が正しいとかそういうことではなくて、視点を変えれば当たり前も当たり前ではなく、大問題と思っていたことも、ちいさな規模なものに感じられるかもしれない。価値観は自由に変えられるものなのだ。

 

 わたしはよく落ち込む。拗ねるし、執着したくないと願えば願うほどしつこく意識し続ける。そんな自分を見て嫌になることも日々あるけれど、

そんな時、空から地上の小さなわたしを視る。

情けない顔をした女がぽつんとちいさな部屋に座り込んでいる。

 

だいじょうぶ。

 

わたしがわたしを視つめる時、孤独の中にあたたかさが生まれる。

 

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