風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

このブログを、なにかのきっかけで見つけ、読んでいるひとがいるということに、書き始めて1年近く経つというのにいまだにどきどきしている。情報の海の中で浮かんでいる、ちいさな葉っぱのようなこのブログに目を通しているあなたに、目には見えない交差点でばったり逢っているのですね。そんなあなたがいるだと想うとパソコンに向かう気持ちもちょっぴり違うのかもしれません。Wifiを発明したひと、インターネットのプロバイダー業者の方、わたしのパソコン売ってたひと、はてなブログつくったひと、諸々諸々も、今のわたしのブログの関係者のみなさんです。自分が書きたくて書いているのだから、一方通行でもまぁいっかと思っていましたが、こうして読んだり・読まれたり、コメントを残したりと、やりとりがあるって想像よりも人間の温度が感じられておもしろいですね。

 

 ちいさなアパートで暮らしている。実家から車で15分以内の、ぱっと思いついたら行き帰できる距離。住んでいるところはそこ、夕飯を食べる場所は実家。

「実家でご飯を食べる」と言うと「いいね、楽だね」という人も結構いる。そういう人は実家だとごはんがさっと出てくるのだろうか。実際は実家でのご飯担当はほぼわたしで、正直楽という感覚は少ない。が、うまくできたとガッツポーズがごく稀に湧いてくる日があり、それを楽しみにフライパンを廻す。

 

実家の家事と、アパートの生活の往復を何年も続けている。自分でも非効率だと思うけれど、それでもこのアパートはわたしには必要な場所だ。実家は古いせいか祖母のテレビが聞こえて落ち着かない。大音量なのは祖母が悪いのではないが、わたしの耳には合わない。無音の時間が要るわたしにはひとりっきりの空間が必要なのだ。他にも家族と感じ方が違うことで実家にいる時間をある程度限定して過ごしている。

 

周りの情報を取り込みすぎるとちょっと息が乱れていく。自分の呼吸のペースを整えていく、そんな場所があることがとても大切だ。

友人と話をしていて、「ずっとにんげんは卑しくて嫌いだと想っていたけれど、こりゃあにんげん好きなのかも、にんげんをもっと知りたいのかも…!」と言ったら、「だろうね。やっと認めたんだね」と笑っていた。15年近い思い込みの雪解けがなんとなくできている。 にんげんを知りたい欲もありながら、でも情報が多すぎるとさっとひとりに逃げたくなる。そんな絶妙なバランスを持っているこの性質は、自分の事だが気難しい。だけど、ちょっぴりおもしろい。

 

きっと適度な孤独を望みながら、にんげんと関わることを続けていくのだろう。ひとりを満喫しながら、ひとに逢いたくなったり、煩わしく感じたりして、わたしは生きるのにずいぶんと忙しい。

 

 

この先、生き方もだれと関わるのかもどんどん形を変えていくのだろう。それでも自分の感覚を感じることを止めずに居たい

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 (今日のまとまりない文章もよしとする)