おわりとともにはじまる
たった数日、連続して書かなかっただけなのに、リズムが崩れたからか、うまく筆がのらない作家のようになっている。
ブログのビギニングof the beginningの、あの、どうしよう、何をどう書けばいいんだっけ?むむむーーーー、、みたいなところまで戻っている気がする。
リズムって大事だ。
さぁ、今日は書き上げることはできるのか。
*
2月の振り返り会に参加してみた。わたしのことをよく知っているひとと数人の限られた中でのやり取り。1か月のなかで起こったこと・やったことを想いだして、それに対して何をどう感じたのかを書き出してみる。
書こうと思って手帳をみたが、全体的に白い。手帳に書き込むことを忘れていたようだ。そこでこのブログを出してざっと見返してみる。このブログでは何か大きな出来事について書くことはほとんどしていない。わたしにとってブログと言う場所は、自分の内側にあるものに一番ちかい名前を探す場所だ。そしてそれを外側へ出す練習をする訓練場。
見返してみると、小さなとまどいだったり、じんわりした感動だったりが頭のなかでちかちか光って見えた。
2月は体がきつかった。毎朝起きるのに苦戦していたし、体も重たい日がおおかった。今も肩こりが悪化していて、常に左肩に意識がある。
でもそういう痛みや不快にやっと気付れるようになった。ほっとくなよサインに向き合うように言われた気がするので善は急げで整体を予約。
病院やクリニックをつい避けたくなる性格だが今はGOだ!
それから決断することに対して向き合うこと。わたしはビビりんなので、決断となると目が泳ぐ。まごまごしている間に逃したタイミングは多い気がしている。結果オーライなのだろうけれど、優柔不断だなぁと度々がっくししている。引っ越ししようと思い立ってからずいぶん経つがまだ決まっていない。ほんとにこやつはやる気があるのか?と、やや冷たい目でもうひとりの自分が睨んでいる。怖い。
こんな中でも決断することの意味を自分の中で考えた。
迷うことも自分の中でうまく発酵させていけばいいのかもしれない。
そして、2月ごろからブログ上でも少しずつことばのやり取りがあったりして、パソコンの前で叫んだり涙目になったりしている。
自己完結のような文章で得する情報を書いているわけでもないけれど、この場所を大切にしてくださる方がいることに、じわじわとあたたかくなります。
いつまで続けるのかも、これから何を書いていくかもはっきりしているわけではないけれど、今日もブログを書いた!そして明日もまた書きたくなりました。
ハードな2月。そういえば雪が降ったり、あったかくなったり天候も激しかったし、地震のゆれには考えさせられました。そしていろいろ気になる情報と、なかなか大変でした。たぶん世界中のひとがそれぞれ各々大変だったよなぁ。
みなさん2月おつかれさまでした。
あしたからの3月、ゆるっとなる時間がそれぞれありますように
違うよ
寒かったりあたたかったり、変化しながら確実に春に近づいているように感じる。
梅もすこしずつ咲いてきているし、花粉は飛んでいるし、春だ!
・・・最近やたら眠たいのも、きっと春だから。そう春だものしょうがない!
*
今日の晩御飯は鶏肉団子のトマト煮込み。前日に作り置きしてあったから味が染み染みでおいしい。ずっと食べたかったからわたしはうきうき。
テーブルへやってきた祖母「これなに?」
わたし「トマト煮込みやよー」
祖母「へぇ。これ中華料理?わたし和食がすきなんだけど」
どうみても洋食だろうが!と突っ込みを入れたいところだけれど気になるのはそこではない。
一口食べて(嫌そうに)「これ、おいしいの?なんかわたしはすきじゃないんだけど」
おーい、そんな顔で否定してくれるなー!作った方は哀しくなるではないか。いや、創ったのは姉だけど。
「あなたが和食が好きなのは知ってる。でもたまには他のも食べようよ。わたしも好きなもの食べたいんじゃ。
ちなみにあなたの作った切干大根の煮物は、わたしには味が濃すぎて、食べづらいんよ。人の好みってみんな違うんよ。」
祖母、本気で驚く。「へー、あんたこれが好きなの?みんな和食が好きじゃないの?!」
*
ひとって気づかないうちに自分の物差しと相手の物差しは当然同じだと思ってしまうんだろうな。
わたしがすきなこれは、相手も当然好きなんだろう、
わたしが嫌いなあれは、みんなにとっても嫌いなものなんだろう、
わたしが辛いあれは、みんなにとってもよくないものだ。
そうやって想うことは自然なことなのかもしれない。
とくに祖母のように純粋さをもっていると尚更に。
でもにんげんってぜんぜんばらばらだ。
家族でも味覚が違う。好みが違う。思想が違う。視点が違う。違うのが当たり前で、重なっている部分の方が貴重なのかもしれない。
祖母の料理は塩辛くて食べれない。わたしは薄味が好き。祖母のにごった茶色のセーターよりも、ピンクのシャツの方が似合っているのに着ないなぁと想っている。祖母は原色のはっきりした色見の花が好き。わたしは白い、薄い色の花に惹かれる。
わたしとあなたはちがう。違うひとたちがごろごろと集まって暮らしている。
ぶつかることが怖かった。揉めたくないと想っていた、けれど、
これだけ違うひとと一緒に時間を過ごすなら、ぶつかることがあっても不思議じゃない。
無理に合わせなくてもいい。我慢しすぎなくてもいい。
世界にたったひとりわたしだけだったら、争うことも比べて落ち込むこともない。
でもきっとわたしはそんな世界を望まない。
揉めて苦しんでも、哀しい想いを何度経験しても、最後にはきっと他者と過ごすことを選ぶだろう。
それを知るために、家族という枠があるのかもしれない。
わたしを見て
今日はぽかぽか、あたたかな日。
梅見日よりの野点日和(自己流ver)でした。
おばーちゃんずを連れて、近くの梅林公園へ。
お団子とアルコールと最低限のお抹茶道具と水筒にお湯を入れて、広げたレジャーシートに座り、のーんびり。
お団子もスーパーの和菓子コーナーのだし、御座じゃなくて100円のレジャーシート。それでも外で飲むのってなんだか気持ちいい。
正式に習ったことはないのですが、お抹茶をいただくって時間は好き。
一緒に出掛けた、ご近所のおばーちゃん。ずっと物静かなひとだと想っていた。ご年配だけれど散歩を日課にされている元気な方。
お抹茶を飲み、五分咲きの梅を見ながら、「いいねぇ梅が見れるなんて。久々で嬉しいわぁ」と言っていたのもつかの間、「昔はこんな風に見てられなかった。戦争があったからね」と話だし、そして自分の人生を幼少期から語りだした。
「わたしも大変だったのよね」となんども。
普段おしゃべりな祖母もまったく口をはさめないぐらい、ずっと半生を話していた。
わたしはおばーちゃんの後ろに咲く梅を観つつ、耳を傾けながら、ぼんやりと
みんな話をきいてほしいんだなぁ
と考えていた。
たぶんどんな年齢でも性別でも肩書きがなんでも、ひとのこころの内側には、
わたしを見て
わたしの想いを聴いて
わたしを認めて
そんなかたまりがあるのかもしれない
一生懸命に生きてきたからこそ。
じぶんの内側にある、認めてくれくれマンなわたしのことを、
わたしは必死に踏みつぶして隠してごまかそうとしていたけど、
だれかの”認めて”を見つけてから、
自分のそれも、そのままでもいいのかもなぁって想うようになった。
そして、
だれかの”認めて”を見つけたとき、
こころのなかがちょっぴり切なく、あたたかくなるのだ
気付いてほしかったんだね
でもきっとだいじょうぶ
みんなあかちゃんみたいなものだ
人生一回目だもの
続けることと止めること
コツコツと、毎日寝るまえまでにブログを書くことを11月から継続してきましたが、
昨日はまったく体が動かず、パソコンの前に座っていられず、
「あぁーブログぅ・・・」と想いながらもコテン。
これまでも深夜12時を超えていたり、投稿したと思ってたら上がっていなかったりしたことは度々起こっていたのですが。
1行も書けなかったのは久しぶりのこと。そこで湧いてきた感情は
「ああああああああああああーーーーくやしいいいいいいいいいいいいいい」
↑実際に声に出ました。
たくさんの人に読んでもらっているわけじゃないけれど、すばらしい文章でもためになるコンテンツでもないけれど、ブログを書くことはわたしにとって大きいものになっていたんだな。と認識するきっかけになりました。
去年の11月、3日坊主野郎だけど「ブログを続けてみよう!」と思い立ち、ほぼ毎日投稿してきてもうすぐ〇ヶ月。
自分は飽きっぽく、継続性がなく、”コツコツ”とか”継続”とか、そういう言葉からかけ離れているな、とずっと思っていましたが、
ここにきて、
「あれ、このひと(自分)止めることが苦手な人なのかも・・・」と疑っているのです。
ブログを投稿する
そのことに、こだわりを持って、縛りをつけて過ごしていたのかも。
眠たい日は何日もあったけど、それでもブログをあげたかった。
それはなぜなんだろう?
ブログに固執していたのか、承認要求からくるのか、さみしがり屋だからなのか?ブログが楽しいから、書きたいから、克服したいから、、、
と色々頭の中を探ってみて、全部が少しずつ正解だなと気づきました。
わたしは頭の中を整理することや、考えを言葉にすることが苦手で、その練習のための場所としてブログがあります。ブログを書くことで気づく感情がたくさんあります。そして、コメントを残してくださる方と対話できることが、胸がじんじんするくらい緊張してワクワクします。
人間は、慣れる生き物といいますが、最初は続けることが難しかった毎日継続が、大変なりに当たり前になっていき、ないと不自然に感じられるようになるのでしょう。
ブログを投稿することは決して楽ではないけれど、わたしにとって少しずつ習慣になってきていたのです。実際、楽しめている自分もいる驚き。
続けることを練習していたけれど、止めることも相当苦手なんだと気づきます。
むしろ、止めることが難しいから、最初から続けることを選択していなかったのかもしれない。相当なビビリなのかも。
昨日ブログ書かなかった。
文章にすればそれだけのことなのに、落ち込んでいる自分がいて、そんな自分に驚いている自分もいます。
他者を「○○なひと」とラベルを貼りたくないなぁと想いつつ、じぶんにもたくさんラベルを貼っていたようで。
自分がどんなひとなのか、ということはこの世を旅立ってはじめて分かるのかもしれません。
長々書いていますが、ブログはもう少し肩の力を抜きつつ、とりあえずまた明日からも書いていきます。
・・・・なんという長さ。まとめる練習していきたい・・・
You were blessed
たいせつな一日。
おとなになってからも誕生日はやっぱりケーキ。
亡くなってからも、変わらず。
去年は米粉のミルクレープだったな。一晩寝かせたらパッサパッサになっちゃってた。
今年も懲りずレモンチーズケーキを焼いた。砂糖控えすぎて、甘味が25m先で必死に手を振っている、みたいな味になった。うーん、お菓子はやっぱりちゃんと測らないと。
なんの信仰でもないけれど、創ったケーキは写真の前へ。結局わたしが食べるのだけど、見せるだけでも見てもらいたくなる。手作りだから、ゆるしてね。
*
自分の誕生日も色々想う日だけれども、ハハの誕生日も嬉しい日だ。
ハハが生まれてきたから、自分もこうして甘くないケーキを食べていられるのだ。
亡くなってから、むかーしの、こども時代のハハの写真がでてきた。
かわいかった。
悩んだあれこれの話も少しきいた後は、タイムカプセルに乗って、リトルハハに逢って頭をなでてあげれたらな、と想った。
じめじめ悩んだり、ひねくれたり、おちゃらけてたり、そんな不器用な人生を歩んできたと想ったら、やっぱり愛おしくなった。
居なくなってからも、たくさんもらっている。
あなたのおかげでわたしは、泣いてるし、怒っているし、笑っている。
傷ついているし励まされている。
意味なんてなんもいらないと想いながら、意味を見出し続けている。
そして今も生きている。あなたのおかげだよ
おまけ
毎日職場で散歩をしている。
利用者さんの健康のために30分くらい近くをぐるーっと歩いて回る。
利用者さんのためと言いつつ、同行する自分の健康にもちゃっかり助かっている。
外を歩いていると、季節の変わり目とか、毎日の天候の変化が細かく感じられるから好きだ。
公園でブランコをにこにこしながら漕いでいる利用者さんを風の冷たさに震えながら見つめる。
ふと、気づく。
わたしたちは結局のところおんなじなんだと。
どれだけ肌の色も、性別も、年齢も、障害があったりなかったりしても、性格がやさしくても非情でも、
体を燃やしたら残るのは、みんな骨。
わたしたちが気にしている外見や他者との違いって、一番表面の、全体でみればとてもちっぽけな部分だ。
ただの生命であれば、自分のいのちを繋げる以外に何の興味があっただろう。
優しくなくたっていいし、醜さや美しさの概念も存在しないのだろう
それでもわたしたちはこころをもった。
おしゃれにこだわったり、個性をもちたがり、ひととのやりとりに一喜一憂する。
そんな複雑さとややっこしさを持っているのが私たち人間なんだと。
おまけをもらっているのだと想う。
このおまけは時に切なかったり苦しさも含んでいる。葛藤したり悔しくもなる。
このにんげんの苦々しさを、最後の瞬間まで味わっていきたい。
今日もからだを動かすことができる
感情も波のように日々変わる
生きれた、よかった
慣れる能力
にんげんは慣れる生き物だ。
3年前、東京マラソンに出た。
友人が「ずっと8年ぐらい応募してるんだけど当たったことないんだ。とりあえず応募だけしちゃおう!」と誘われたので、複数の友人で応募をした。
そして当選したのが、わたしと誘った友人Aさんだった。
当時5キロ走れたらいいほうだったわたしも、当選したなら完走したい。
参加費も払っちゃったし、東京に行くまでにも交通費もかけていくのだ。途中で根をあげたらいろいろもったいないではないか。
そう思って練習を始めたのは3ヶ月前だっただろうか。
ちょっと早歩きでひーひー
ちょっと走ればぜーぜー
なるほど、これはキツイ。このままでは人込みを見ただけでリタイヤしてしまいそう。
マラソンの練習着一式を買い、使い古すぐらい使おうと決め、毎日の練習がスタート。
マラソンってどうして横っ腹が痛くなるのだろう。
毎朝5キロのジョギングをするのが日課になった。
一日目は足がパンパンに。
二日目は起きるのがしんどかった。
三日目もぐずぐず言ってた。
4日目は朝日を見るためだけにとにかく起きようと、自分を鼓舞した。
そうやって一日一日を過ごしている間に、走ることに慣れていった。
走るということが自分の中で自然になっていった。
にんげんってすごい能力を持っている。
慣れることができるのだ。
想えば、いまのわたしは過去の慣れるまでの経験が積もってできている。
箸を使うことができているのも、
お風呂で髪の毛を洗えるのも、
自分の名前をすらすら書けるのも、
家から職場までの道を間違えずに行けるようになったのも、
ぜんぶぜんぶ繰り返し繰り返しを続けて、”あたりまえ”を増やしていったから。
続けていくことで自然とそれを受け入れていく。
今のじぶんに足りないものがあると落ち込むことがあるときは、今もっているものを見つめてみる。
当たり前のようにしているあれもこれも、ひとつひとつ身に着けたもの。ひとつひとつつけていった力。
今のわたしはできることがたくさんある。