わたしを見て
今日はぽかぽか、あたたかな日。
梅見日よりの野点日和(自己流ver)でした。
おばーちゃんずを連れて、近くの梅林公園へ。
お団子とアルコールと最低限のお抹茶道具と水筒にお湯を入れて、広げたレジャーシートに座り、のーんびり。
お団子もスーパーの和菓子コーナーのだし、御座じゃなくて100円のレジャーシート。それでも外で飲むのってなんだか気持ちいい。
正式に習ったことはないのですが、お抹茶をいただくって時間は好き。
一緒に出掛けた、ご近所のおばーちゃん。ずっと物静かなひとだと想っていた。ご年配だけれど散歩を日課にされている元気な方。
お抹茶を飲み、五分咲きの梅を見ながら、「いいねぇ梅が見れるなんて。久々で嬉しいわぁ」と言っていたのもつかの間、「昔はこんな風に見てられなかった。戦争があったからね」と話だし、そして自分の人生を幼少期から語りだした。
「わたしも大変だったのよね」となんども。
普段おしゃべりな祖母もまったく口をはさめないぐらい、ずっと半生を話していた。
わたしはおばーちゃんの後ろに咲く梅を観つつ、耳を傾けながら、ぼんやりと
みんな話をきいてほしいんだなぁ
と考えていた。
たぶんどんな年齢でも性別でも肩書きがなんでも、ひとのこころの内側には、
わたしを見て
わたしの想いを聴いて
わたしを認めて
そんなかたまりがあるのかもしれない
一生懸命に生きてきたからこそ。
じぶんの内側にある、認めてくれくれマンなわたしのことを、
わたしは必死に踏みつぶして隠してごまかそうとしていたけど、
だれかの”認めて”を見つけてから、
自分のそれも、そのままでもいいのかもなぁって想うようになった。
そして、
だれかの”認めて”を見つけたとき、
こころのなかがちょっぴり切なく、あたたかくなるのだ
気付いてほしかったんだね
でもきっとだいじょうぶ
みんなあかちゃんみたいなものだ
人生一回目だもの