誰かを引きずり落としたくて、その言葉を使っていないだろうか
短い動画を見た。
原発事故から避難した人たちと被災した人たちが1本の道路を挟んで総合団地で生活してきて、
お互いに誤解や偏見があったけれど、対話を始めていったというドキュメンタリー。
原発事故からの避難をしたひとにはそのひとたちの苦しみがあって、
被災したひとたちにも別の苦しみを持っていて、
その間には見えない溝があったそうだ。
でも、対話の機会を重ね、本音を話していき、お互いの苦しみを知って、少しずつ誤解のかたまりが溶けていったと。
すごくお互いに勇気のいる対話だったのだろうなと思う。最初に対話していきたいと言った方の心情を想うと、怖かっただろうし反対もされただろうと。
偏見だったり差別は、事実いろんなところで起きている。
今もジェンダーだったり、年齢や障害や人種といったものをきっかけに人と人との間に隔たりが日々起きていて、それで反発や虐めが浮き彫りになっている。
社会のしくみはむずかしいけれど、
どんなことでもきっと共通していることがあって、
みんな余裕がなくて、自分の辛さでいっぱいいっぱいなんだよな
と想う。
苦しさのタンクが溢れそうになる時、
隣の人のタンクは自分より全然はいってないように感じたことがある。
わたしはこれだけ苦しいのに、
と口からこぼしそうな時、自分を助けたくて、辛い時間から逃げたくて他者を傷つけてしまうことがあった。何度も。
わたしが苦しいときに相手が苦しんでいないと、なぜ言い切れるのだろう?
誰かを引きずり落としたくて、その言葉を使っていないだろうか
自分を正当化したくて、誰かを責めていないだろうか
時々、じぶんのこころに聴いてみる
多様性の時代と言われつつも、分断が激しくなった社会と言われて久しい。
その社会の中で生きていても、苦しみの連鎖を続けなくてもいい。
革命はちいさな範囲からだ。
できたこと、できること
実家に行ったら、アサリとシジミがあった。
チチがドライブしたお土産にアサリ、祖母がスーパーでシジミをそれぞれ買ってきたようだ。お互いに出かけたことを知らずに、同じ貝類を買ってくるこの確率。
お互い嫌い合っているとは思えない。
やっぱり前世が双子だった説は濃厚だ。
*
ひさびさに大きな地震があったよう。
私の住む地域は揺れは小さかったけれど、みなさんの住んでいるところは大丈夫でしたか?
3月11日も近づいてきましたが、10年って長かったのかあっという間だったのか、言い切れない難しさがあります。
震災後の2012年1月に気仙沼の復興支援に参加しました。
9ヶ月経っていたけれど、実際に周ってみると、倒壊した建物や崩れた道路がたくさんあって言葉がでてこなかった。
2週間で何ができたという感覚は全く、ただただ現実としてそこに起きたことを知ることしかできなかった。
「また東北へ来て。遊びに。それが一番ありがたい。」現地でコーディネーターしてたおじさんが言っていた。
ごめんね、おじさん。あれ以来なかなか行けていない。
建物や街は少しずつ形を変えていく。
ではひとのこころはどうなんだろう
震災当時は留学先の春休みだった。
寮のテレビで津波の映像が繰り返し流れていた。
旅行の予定だったけれど何を見ても映像が頭に流れてきて何一つ楽しめずに心がずっしりとしたまま過ごしていた。
実際に体験していないわたしでも心が折れていた。
実際に揺れを体験した人はどれほどの恐怖であっただろう
想像しようとしてもできないのだろう
哀しみはいつか薄れていくのだろうか
淋しさやくやしさは生きていくことで乗り越えたと言えるのか
がんばれ、なんて言えないよな
絆がどうとか、おこがましいな
無力なわたしは今日あたたかくして眠れているひとがひとりでも多いことを願う
太陽のボブ
ふと思い出して動画を検索してみたらあった。
昔放送していた、「ボブの絵画教室」
こどものころ、ほとんどテレビはアニメしか見ていなかったけど、この番組はなんだか好きだった。
油絵が何たるかは全く知らないぐらいの年齢だったけれど、こどものわたしにもよく分かった。
このアフロのおじさんがとっても楽しそうだということが。
ボブロスはアメリカの画家。この番組はアメリカ、日本だけでなく、メキシコや韓国、ヨーロッパ諸国でも色々と放送されていたそうだ。
ボブは軽妙な解説で筆をリズミカルに動かす。するとぼやーっとしていたものからあっという間に形が浮き出てくるのだ。
見ている間に絵がどんどん形を変えていくのが、とても面白かった。
あっという間に山や木々が浮かび上がってくるのは魔法みたい。
「ね、簡単でしょ!」と5分に1回ぐらいの口癖のボブ。
あんまり軽やかに筆を動かしているので自分でもできそうな気がしてくる。いや、なかなか実際はできないのだけど。
それにしてもずっとしゃべりながら筆を止めずに描くのってがどうなってるんだ。
30分という超コンパクトな時間で描いていると思えないし、頭の中に描きたい景色が浮かんでないとなかなかできないだろう。ボブの頭のなかが視たい。
視聴していたこどものころは、ボブの持っている顔よりも何倍も大きなパレットが欲しかった。あれがあれば絵が描けると想っていた気がする。
兎にも角にも描いているときのボブはとても生き生きしている。
わくわくした気持ちは画面ごしでも飛んできた。
わくわくしているひとのエネルギーって強い。
太陽みたいだ。
そんなひとを見るのが、わたしは好きだ
なんだか嬉しいのだ。
きっと、いのちを正面から見ているような気持ちになるからなんだろう。
自分はどうだろうか。
あんな風にキラキラしているのだろうか。
どんなものでもいい、自分がワクワクする方を選ぶこと。
誰よりもまず自分の心が動いていること。
アンテナの受信に敏感になっていたい。
太陽のボブ
ふと思い出して動画を検索してみたらあった。
昔放送していた、「ボブの絵画教室」
こどものころ、ほとんどテレビはアニメしか見ていなかったけど、この番組はなんだか好きだった。
油絵が何たるかは全く知らないぐらいの年齢だったけれど、こどものわたしにもよく分かった。
このアフロのおじさんがとっても楽しそうだということが。
ボブロスはアメリカの画家。この番組はアメリカ、日本だけでなく、メキシコや韓国、ヨーロッパ諸国でも色々と放送されていたそうだ。
ボブは軽妙な解説で筆をリズミカルに動かす。するとぼやーっとしていたものからあっという間に形が浮き出てくるのだ。
見ている間に絵がどんどん形を変えていくのが、とても面白かった。
あっという間に山や木々が浮かび上がってくるのは魔法みたい。
「ね、簡単でしょ!」と5分に1回ぐらいの口癖のボブ。
あんまり軽やかに筆を動かしているので自分でもできそうな気がしてくる。いや、なかなか実際はできないのだけど。
それにしてもずっとしゃべりながら筆を止めずに描くのってがどうなってるんだ。
30分という超コンパクトな時間で描いていると思えないし、頭の中に描きたい景色が浮かんでないとなかなかできないだろう。ボブの頭のなかが視たい。
視聴していたこどものころは、ボブの持っている顔よりも何倍も大きなパレットが欲しかった。あれがあれば絵が描けると想っていた気がする。
兎にも角にも描いているときのボブはとても生き生きしている。
わくわくした気持ちは画面ごしでも飛んできた。
わくわくしているひとのエネルギーって強い。
太陽みたいだ。
そんなひとを見るのが、わたしは好きだ
なんだか嬉しいのだ。
きっと、いのちを正面から見ているような気持ちになるからなんだろう。
自分はどうだろうか。
あんな風にキラキラしているのだろうか。
どんなものでもいい、自分がワクワクする方を選ぶこと。
誰よりもまず自分の心が動いていること。
アンテナの受信に敏感になっていたい。
決める練習
わたしたちは日々決断を迫られている。
何時に起きる
どこへ行く
何を食べる
何をする
何をしない
何を得る
何を手放す
時に意識しながら、時に無意識の中でいろんなものから一つを選ぶ。
今日履く靴下から、食べるお昼ご飯、連絡する相手も、伝える言葉も。
選択肢は実はたくさんあって、その中でたったひとつを選ぶ。
わたしは優柔不断だ、と想う。いや、想っていた。
今引っ越し先を夜な夜な検索しているが、なかなか進まない。
田舎町とはいえども、いくらもあるものの中から、これだとひとつ選ばなければいけない。
当たり前だ。2つも3つも選べないし、どれかを選ばないと、使うことはできない。
調べながら、自問自答を続ける。自分が大切にしたいことは何か、譲れないことはなんなのか。
最終的にはひとつ選ぶ。決断をする。
決断するときに必要なのは、決めてしまうということだと思う。
・・・当たり前だ。当たり前のことだけど、こころのなかで、「よし、これでいく!」と宣言してしまうことって結構大切なような気がしている。
決断するのは時に怖い。わたしはビビりマンなので、「決め・・・やっぱちょっと待って!」みたいなことがよくある。
勇気を使って震えながら決めてしまう。
どきどきしながらも決断する。
毎日まいにちその連続。この世界から旅立つ頃には少し慣れるのだろうか。
選ぶという自由は、怯えながらも進む自分を認めるということ
thinking
フランスの哲学者サルトルの名言に、
”My thought is me: that's why I cannot stop thinking. I exist because I cannot keep from thinking."
(思考こそ私である。なので思考することを止めることはできない。思考することから逃れられないゆえに、わたしは存在する。)
とあります。
これを始めて目にしたとき、ほー!分かるような分からないような・・・と頭がぐるぐるしましたが、とても印象に残った言葉でした。
自分の性質を分析してみると、
思考することをとても重要視していることに気づきました。
考えることが好きというより、そこに対しての欲がある。
いろんな角度から見てみたい。
いろんな話を聴いてみたい。
本質がどれなのが吟味したい。
ひとつのことについて、粘っこくしつこく考える、そういう性質が自分にはあるようです。
それゆえ瞬発力はなく、即答するのも苦手。
でも本質か本質でないかのセンサーは日々の鍛錬で感度を挙げてきているので、
「あ、このひと思ってることと言ってることに誤差がある気がする」とか
「言葉に力が入ってないな」とか、すぐに反応します。
これはもう勝手に脳が働いている機能で、自分の言葉に対しても厳しく精査しています。「今嘘を口にしたな」とか。それゆえ自分自身が傷つくこともあります。
ずっとこの”考えすぎる”自分が嫌だなと思ってきました。
どうみても、重い・ネガティブ・付き合いづらいやつ に見えるだろうって。
でも方向性を変えてみました。
わたしのこの止まらない思考はわたしの特技にしてしまおうと。
重たい、しつこいなんのその。
ネガティブもポジティブも関係なく、一から100まで考える。
そういう人間なんだから、それをやりきってしまおう。
自分を無理に設定変更しなくてもいい。そのままいっちまおう。
深く深く考えることは習性として、それを表現していきたい!というのが今の想いです。
思いはぐつぐつと沸き立っているのに、なかなか言葉が見つからない!
ブログで自分を出す練習はまだまだ続きます・・・
その不器用さが愛おしい
自分のことを不器用だな、と想いますか?
わたしはしょっちゅう想います。あー、やっちまった。うげ、これ忘れてた。あぁ、また人を傷つけちゃった。なんでダメだとわかっててそれやった?などなど、日々落ち込みのオンパレードです。忘れっぽいし、注意力も散漫。こころのなかで、このくそ野郎!と叱咤する自分がいつもいます。
今関わっている人は障害の診断を受けた人たち。それぞれに特性があって、ペースがゆっくりだったり早かったり、こだわりがあったりする人たちが多いです。
そんな人たちと日々一緒にいると、毎日バタバタしたりげらげら笑えたり焦ったり怒ったり、まぁ同じような日、というのはなかなかありません。
合う人もいればあんまり合わない人ももちろんいる。それは障害とかに関係ないのかもなぁ。
わたしもでこぼこした特性を持っていて、
隣に座るひとも違うでこぼこを持っている。
その”でこぼこ”を一緒に笑っていられるひともいれば、
”でこぼこ”を快の方に感じられないひともいる。
それはどんなひとに対しても一緒。
「その”でこ”はわたしには合わないんだけどあなたのその”ぼこ”はなんか好きなんだよねー」
なんていう場合も結構ある。
みんなどこかしら不器用で、がたがたしてて、弱くて強い。
生きていくということは、誰かのでこぼこに出逢うこと。
生きていくということは、わたしのでこぼこを持って歩むということ。
合わなくても、だいじょうぶ。
すごーく探せば小さいけれどぴったりあうでこぼこがきっとある。
もし見つけれなかったら、
笑顔でまたねと言って離れればいい。
不器用なひとばかりのこの星で、
明日は誰に出逢うのだろう