風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

愛しきうんこ

夜。そとの風の音に度々びくついて過ごしている。

明日は寒くなりそう。また目覚ましと布団の中で闘うのかな・・・こりゃあ。

 

今日はトイレの話です。苦手な方はすみませぬ。読んでから不快になる前にUターンしてください。

 

 

 

亡くなる前、ハハは体がうまく動かせなくて、わたしたち家族が色々身の回りのことをすることが増えた。

訪問看護さんが来てくださっていたけれど、気遣いの人って、たとえ病気の中でも気を使ってしまうのだ。元気な看護師さんに合わせてテンションを挙げて話して、あとで疲れ果てている場面を何度もみた。家族だからといって自分のことを手伝ってもらうということが全部おまかせできるといったら、それは違うとも思うけれど。

自力でこれまで色々がんばってきたからこそ、”委ねる”ということに対して、体に力が入ってしまうのかもしれない。そういえば「もっと楽にと言われても、力の抜き方がよく分からない」とよく言っていたな。

 

 

ある日、彼女はトイレが間に合わなかった。数メートルの距離が間に合わなかった。

「ごめんね…」そういうハハは哀しい目をしていた。

もしかしたら、間に合わなかったことよりも、汚してしまったものをひとに片付けてもらうことの辛さがあったのかもしれない。

 

でもわたしはなぜだろう、頭に浮かんできたのは、

「こうやって、わたしが生まれてからやってくれてたんだよな。お返しを今してるのかぁ」

とじわじわ想っていて、自分でも驚きだけど、

嬉しかった。

 

ついでにいうと排泄物も全然汚いとも思わなかった。

「かわいいな、よしよし片付けてあげるからな」とその時は本気で想っていた。

それは親になった人がわが子のうんちを「かわいい」と愛情を通して言うのと同じようなものなのだろうか。今だによく分からない。

 

そのような片付ける場面が増える前に旅立っていったので、それが何か月、何年と増えるとまた違う感覚になるのかもしれないけれど。

 

「よくぞ出たぞ!えらい!」わたしは片付けながら排泄物に声をかけていた。

弱っていく体のハハから出たものなら、排泄物でも嬉しい。

生きている証拠。よくがんばってる。

掃除しながらちょっと涙目になった。

 

亡くなる数日前のことだった。

 

 

 

 

あれからトイレに入るとふいに想いだす。

排泄物がでるってほんとに奇跡のよう。今日も出た、かみさまありがとう。

生きていることを実感する瞬間のひとつだ。

この身体が存在しないと食べるということはできないし、この身体が存在しないと排泄することはない。至極当たり前のことなのですが、それは大きな奇跡だなとトイレットペーパーを握りながらぼんやり考えてたりしています。

下痢になっても便秘に悩んでも、わたしはそれに悩むことができるこの身体の存在にいまだに感動し続けています。

 

 

 

トイレに入った時に考えることのお話し、終わり。

 

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