わたしの伴走者
今日はなんだか日差しがぽかぽかしていた。
数日前は凍った車のドアを開けたらバリバリ鳴ってたのに。
毎日、当たり前のように変化してるんだな、天気は。
*
ハハが旅立った時、自分の中でいろいろな感情が泉のようにあふれかえり、爆発した。
衝撃的な感動と墜落したような哀しさと、渦を巻いた不安とが、混ざり合って波になって何度も覆いかぶさってくる。
どう言葉にすればいいのか分からず、疲れたとも言えず、過ぎていく日常に違和感を感じながら、ぽつんとひとり浮いていた。
その時、自分の感覚と、家族の感覚は等しく同じではないんだと気づいていた。わたしの哀しさとチチの哀しさは違う。祖母とも違う。きょうだいとも違う。だってそれぞれが過ごした時間が違うのだから。想いもそれぞれ当たり前のように違う。
そうだ、分かり合えると思い込まなくていい。鏡のように同じでないけれど、違う哀しみをそれぞれ持っていてもいいんだ。必ずしも一緒に泣かなくてもいい。
そう思ってから、無理に家族と合わせることはやめた。
感情の波内際で横たわっていた時、頼る恋人はいなかった。親しくしていた友人は、こちらも自分の中で大きな葛藤を迎えており、「少しでいいから肩をかして甘えさせてくれないか」となんだか言えなかった。
わたしに邪心があると神様は想っているのだろうか。精神的に弱っている時、神様は「少しでいいから甘えたい・・・」と想っているわたしに易々とお助けマンを配置しない。わたしが苦しいときは大抵そのような人たちも自らの中で戦っていて、人のあれこれをすることは難しいのだ。
自分には甘えられる人はいない。幸か不幸か、そうやって気づかされることがこれまでとても多かったように思う。
そんな時は、よろよろしながら立ち上がるしかないのだ。だれも起こしにくるわけでもない。まず自分が起き上がってみろよ、とかみさまが言っている気がする。
いや無理だ、、立ち上がれない、、、、そんな時は立ち上がれるようになるまで休む。あきれるぐらい、自分でも飽きるぐらいまでしっかり休むのだ。わたしはまた起き上がりたい、そう想うにんげんだから。
かみさまがいても、いなくても、本当はどっちでもいいのだけれども、いるとしたらたぶんわたしはスパルタに育てるコースに振り分けられたタイプなのだろう。
"自分の足でしっかりたってごらん。”かみさまから言われている気がする。
もしくは、じぶんはそうやって、時間がかかっても立ち上がる、そういうやつなんだと、心の一番奥底では信じているのかもしれない。
そう、信頼する。だれでもない、自分自身のことを信じてゆだねる。
気軽に話せる相手が居なくても、甘える相手が居なくても、集団行動ができなくても、わたしには自分がいる。ずっと一番近くで見ている人が。
そうやって、二人三脚でじたばたしていたら、外側で刺激をもらったり、あたたかいことばを受け取ったりする。知らなかった情報が入ってくる。外側からの愛情をたくさん浴びる。何かをしてくれた人にも、何もせずとも近くにいる存在も有り難いと想う感情が湧いてくる。
わたしは豊かな孤独をしているんだなぁと想う。
ひとりだけれども、ずっと身近でひたすらに伴走し続ける存在がいる。