風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

受け身

今日たまたま読んだ記事に印象的な言葉が。

 

災害の多い日本では、自然とどう付き合うかが最大のテーマだ。うまく対処する、それが「しあわせ」だが奈良時代では「為合わせ」と書き、合わせる相手が天だから、「運命」とほぼ同意だった。室町時代には「仕合わせ」となり、相手が人に変わる。相手がこうきたからこう対応しよう、それが「仕合い(試合)」となった。つまり、受け身の対応力が「しあわせ」なのだ。(朝日新聞Globe+ 玄侑宗久インタビューより)

 

 

私たちが生きるこの世界では、自然災害も、戦争も、差別も、環境破壊も、感染症もある。

 

地震もあって、津波が起きたり、火事になったり、台風がきて建物が壊れたり、川が決壊したり、停電にもなるし、水不足にも苦しむ。

どれだけ研究が進んでも、なぜだか感染症はなかなかゼロにはならない。

医学が発達してきても、やっぱり最後にはひとは死ぬ。

 

それがわたしたちの住む世界。

わたしたちにんげんはとても弱い。

水の中ではもっと早く泳ぐ動物がいるし、陸の上ではもっと素早く動いたり、自力で空を飛べるものもいる。にんげんはかなわない。

 

自然の変化にも適応するのは決して簡単なことではない。

こころが壊れると、体も動かなくなるのは、人間だけなのだろうか。

それとも動物も同じなのだろうか。

 

天がなされたことに対して、にんげんはどう在ればよいのだろう。

受け身の対応力というと、なんだか他力本願な感じがしなくもないけれど、

おそらく受け身というのは、

どんなことが起きても、その瞬間の自分のできる限りをする、そしてその流れを信じること

ではないかなと想う。

 

目の前のことをただただ受けとめる。

その先にきっと光が差すのが見える

 

そう信じて。

 

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