愛嬌は最強
ふと片目ずつで見てみたら、右目が以前に比べて一段と乱視と視力低下が進んでいた。
最近の肩こりも頑張って目の神経が働いていたからだろうか。
無理させて悪かったなぁ。
明後日から少し休み。目にやさしい時間を過ごそう。
体のことを以前に比べて、より労わる気持ちが増えたのは、
単に年を取ったからなのか、
体の部分ひとつひとつにより意識をむけるようになったからなのか。
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職場で話していたこと。
障害があってもなくても、言語でのコミュニケーションがあってもなくても、
いちばん強みは愛嬌があることではないか、ということ。
人間の社会では必ず他者とのかかわりがでてくる。
在宅での生活でも、まったく人に出逢わないということはきっとないと想う。
スーパーやコンビニの店員、
新聞配達員や郵便配達員、
修理業者や引っ越し業者、役所の窓口、
近所のおじちゃんおばちゃんやら、
ネット上でのコミュニケーションだったり、
もちろん家族も。
名前を知っている人も知らない人とも、わたしたちは一日にたくさんの人とすれ違ったり、関わったりしている。
未来のことは分からないが、現状ではまったく一人で他社との関わりをなしに生活することはなかなか難しい。
障害を持つひとは、現社会では多くの人の協力のなかで生活をしていくことが大切。
でもにんげんが集まれば、いろんな性格、いろんな意見、いろんな文化があり、
一筋縄ではいかない。
実社会ってなかなか夢の世界のようにやさしくなれなかったりする。
切羽詰まっていると、イライラ、カリカリもしてしまうこともあるだろう。
そんな中でも、「色々あるけど、でもかわいいもんな」と相手に想わせることが最大のライフスキルのような気がしている。
もちろんひとによって何が許せる、何が許せないは異なるとは思うけれど、
かわいげがある、というのは年齢や性別に関係ない能力だ。
利用者さんで言語でうまく説明したり伝えることが得意でない人がいた。それでも、毎日朝からかならず元気にあいさつできること、みんなが嫌がることも文句を言わずにコツコツやる姿勢に、彼女をかわいがるひとはたくさんいる。
愛されるとは、とてつもない武器だと想う。
そして本来なら誰でもみんな持っているもののはずだ。
だってあかちゃんは何をしているわけでなくても、やっぱりかわいがられるから。
生まれたときはきっと持っているのだと想う。それでも生活を続ける中で他のベールで愛嬌が見えにくくなってしまったり、かわいく見えなかったりしてくるのだと想う。
福祉の支援っていっぱいやることがあるけれど、つまりの所は「愛嬌発掘大作戦」を遂行中なのだ。良いところがいっぱいでれば愛嬌になり、周りとの関係がもっと豊かになる。
自分はどうだろう?
愛嬌、伝わってるんだろうか。。。?
愛嬌、でてるかな・・・・??