風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

目に見えないもの

実家で過ごしていると、テレビをつけている時間が長いことに気づく。

自分のアパートにはテレビは置いていないが、ネットで見れることも増えたし、見たいものだけ録画しておいて溜まったら見るようにしている。

 

テレビをずっと流していて気づくのは、CMの多さと刺激の強さだ。

今のCMは音楽や映像もこだわって作られているのか、彩色が鮮やかだったり、音が大きかったりする。

印象的だけど、わたしには強すぎるので、CMの間は目を休めることにした。CMの情報を受け取っていると、本編の内容が頭から抜け落ちてしまう。

 

目からの刺激に慣れてくると、つい見えているということに頼りすぎてしまいそうになる。

視覚の妙に脳は見事に騙されるし、見えてないものの方が実は多かったりすることをすっかりわすれてしまうのだ。

 

気配とか、感情の色とか、そういったものをわたしたちは無意識で受け取ったり、放ったりしている。自然界での生き物たちは生き残るために持っていなければいけないスキルだと思うけれど、人間が失ったのは安全なところにいるからだろうか。留学中はもっと警戒心があったけれど帰国してからは街中で気を張ることは減ったように想う。にんげんはそのときの環境に慣れる生き物なんだなぁ、と改めて思った。

 

 

安全だから、手に入れたものもあり、

安全だから、手放したものもある。

 

どちらがよい、悪いではなく、

ちょうど間を、わたしたちは生きているのかもしれない。

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