「心配」を振り回さずに、祈る。
7月に入ってもう6日も経った。色々思い巡らすことは多々あれど、文字にしようとしては手が止まり、手を動かしては止まり・・な日々が続いていた。
ずいぶんと書けていなかったが、「書く」と決めたときがその時だ。エンジンをかけるのは自分。さ、書くぞ。
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熱海での大規模な土砂災害のニュースを見たとき、心臓をつかまれたようだった。
そしてすぐに熱海に家を持つ人のことが頭に浮かんだ。
強運な人だもの大丈夫。と想いそっと祈りながら時を待つ。
生きていた。ミラクルが起きていた。
そして、とても深い想いを文字にしていた。
深くうなづくようなところがあったので、一部引用します。
一番強烈だった体験は「被害者には説明責任が発生する」ということだ。様々な人から大丈夫ですかと連絡が届く。正直、メールが届くたびに負担が増えるような重苦しさを感じる。気遣ってくれるのはありがたいのだが、返信をする余裕がないために罪悪感が募る。だが、被害者は、自分がどれだけ被害にあったのかを周囲(世間)に説明する必要がある。説明をしなければ周囲が納得しない。周囲を納得させない限り延々と「大丈夫ですか?」と連絡が届く。
力になりたいと思うけれど力になれない自分が悔しいという連絡も届き、正直、これは一番言っちゃいけないやつだと思った。こちとら色々あって大変なのに、あなたの悲しみまで背負わされたら二次災害になる。何もできない時はグッと堪えて祈ることだ。
あぁ、どちら側にもなったことがあるなと思った。
誰かに何かが起こった。そんな時わたしは心配していることを相手に告げる。
「わたしはあなたが心配です」と。でもそれは思い返すと自分のためだ。自分がもやもやから解放されてすっきりしたいための「心配です。大丈夫?」だった。
きっとわたしの「大丈夫?」で傷ついたひとがたくさんいるんだろう。
母が亡くなった時、たくさんの人から「大丈夫?」と聞かれた。
「大丈夫?」と聞かれた時に「大丈夫じゃない」というのはかなり難しいことだ。
しんどい時にもっと気遣いをするのかと思うと、気が滅入り、結果的にどんどん人に逢わなくなった。
相手の辛さやしんどさをわたしはまるごと理解することも代わることもできない。
想像することしかできず、それがまったく相手のこころの内と重なることはない。
わたしの辛さはわたしのもの。
相手の辛さは相手のもの。
誰かのものを取ったり取られたりする必要もない。
だからこそ、祈り待つことも忘れずにいたい。相手に想いを投げるだけが優しさではないのだと、いつもこころにぶら下げておきたい。
だれかの苦しみを奪い取ろうとせず、かと言って見過ごさず。
シンプルに難しいことだな。
アカオハーブ&ローズガーデンのバラ