風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

誰かを引きずり落としたくて、その言葉を使っていないだろうか

短い動画を見た。

原発事故から避難した人たちと被災した人たちが1本の道路を挟んで総合団地で生活してきて、

お互いに誤解や偏見があったけれど、対話を始めていったというドキュメンタリー。

 

原発事故からの避難をしたひとにはそのひとたちの苦しみがあって、

被災したひとたちにも別の苦しみを持っていて、

その間には見えない溝があったそうだ。

 

でも、対話の機会を重ね、本音を話していき、お互いの苦しみを知って、少しずつ誤解のかたまりが溶けていったと。

 

すごくお互いに勇気のいる対話だったのだろうなと思う。最初に対話していきたいと言った方の心情を想うと、怖かっただろうし反対もされただろうと。

 

 

偏見だったり差別は、事実いろんなところで起きている。

今もジェンダーだったり、年齢や障害や人種といったものをきっかけに人と人との間に隔たりが日々起きていて、それで反発や虐めが浮き彫りになっている。

 

社会のしくみはむずかしいけれど、

どんなことでもきっと共通していることがあって、

みんな余裕がなくて、自分の辛さでいっぱいいっぱいなんだよな

と想う。

苦しさのタンクが溢れそうになる時、

隣の人のタンクは自分より全然はいってないように感じたことがある。

わたしはこれだけ苦しいのに、

と口からこぼしそうな時、自分を助けたくて、辛い時間から逃げたくて他者を傷つけてしまうことがあった。何度も。

わたしが苦しいときに相手が苦しんでいないと、なぜ言い切れるのだろう?

 

 

誰かを引きずり落としたくて、その言葉を使っていないだろうか

自分を正当化したくて、誰かを責めていないだろうか

時々、じぶんのこころに聴いてみる

 

 

多様性の時代と言われつつも、分断が激しくなった社会と言われて久しい。

その社会の中で生きていても、苦しみの連鎖を続けなくてもいい。

革命はちいさな範囲からだ。

 

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