風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

余白

「ほんとに毎日、コロナコロナばっかだねぇ」

夕飯を食べながら祖母がつぶやく。

帰宅後ニュースを見そびれていたわたしに、今日は感染者数が○○人だった、と報告してくれている。

話の最後には、「もう、いつ終わるんだろねぇ」と必ず行って、そして自室へと戻っていく。

 

 

このご時世になって、肩身の狭い思いをしているひともたくさんいるなぁと想う。

営業時間の制限によって経営が難しくなった人もいるし、

外出に制限がかかり、心身に影響がでているひともいる。

そして他者からの目をきにして、心苦しい想いをするひとも。

 

マスクをつけることが当たり前になった今でも、

マスクやフェイスシールドをつけることが難しいひともいる。

わたしが日頃関わっている人の中にも、マスクをつけることが難しいひとがいる。

感覚過敏でつけることができなかったり、

顔が見えないことに不安になったり、

それまでつけることのなかった新しいものを付ける事に慣れることが容易でなかったり。

個々にいろんなケースがある。

 

 

 

マスクに限らず、事情があって、マジョリティーがしていることができないひとが一定数でることはまれではない。

それぞれの持っている状況は同じでない。

 

災害のような緊迫した状況だと、他者に対して、

「わたしは○○してるのに、なぜあなたはしていないのか」

という目線が増えるように思う。

緊張状態からのストレスから、気持ちを抑えようとするあまりに批判になってしまうのかもしれない。

 

 

でもわたしたち人間には想像力がある。

こういう時に使いなさいと、かみさまからいただいたギフトだ。

怒りをそのまま唇に乗せるのではなく、少し止まって景色を眺めてみる。

そうすると、相手の動きの中に気づけることがきっとある。

 

 

「あ、もしかして、このひとは○○じゃないといけないのかも」

「○○のやり方をしてるだけかも」

そうやって、想像力を使って、相手のことを考えてみる。

 

 

 

そうすると、じぶんのこころのなかに余白が残っていたことに気づく。

だいじょうぶ。

 

余白があるって、簡単なことではなくて、

すぐにきー!っとなる短気なわたしは基本的に余白がなく、短気である。

相手のことをじっくり見つめると、怒れてる自分の輪郭もはっきり見えて、自分の立ち位置を確認できるのだ。

だれひとり、おんなじ条件を持っているひとはいない。

それぞれ違う中でおんなじ世界で折り合いの中で暮らしている。思えばとんでもない奇跡や努力の中で成り立っているのかもしれない。

 

他者への想像力をめぐらす。

自分の中に余白を創ろう。

 

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