風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

ちいさい自分に声をかけるなら

はじめてのおつかいがやっている。

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こどもたちが奮闘する恒例の番組。

 

「がんばって」と言われて「がんばれない~~~!」と言ってしまったり、

買い物のビニール袋がずたずたに破れたり、

雨にぬれたり、犬にほえられてびっくりしたり、転んだり・・・

ちいさなひとたちの大きな冒険の物語がわたしはだいすきです。

 

 

きょうだい喧嘩したり、道を間違えたり、

全然違うもの買ってても、見ると愛おしさがでてくる。がんばれー!っていいたくなる。

帰り道を祈るような気持ちで見つめる。

このきもちはいったい何でしょう。これは親の目線なのかな。

失敗してても、応援したくなったり、

がんばったんだなぁって抱きしめたくなったりする。

 

未婚だしこどもいないけども、毎回そう思わせられてる。

 

 

 

ふと、思う。

 

自分が、このテレビの中で悪戦苦闘しているこどもだったら

どんなことばをちびっこにかけたいだろうか?

 

自分自身には普段厳しく投げかけたことばを

ちびっこの自分にかけるだろうか?

 

 

自分自身に厳しくすることって、大変なようで

癖になれば意外と簡単なことなのかもしれない。

 

 

ひっくり返してしまった時に「ほらだから言ったのに!へたくそ」と想うのか、

間違えてしまった時に「だからやっぱり無理だったんだ」と想うのか、

 

それとも、

「うん、うまくいかなかったね。じゃあもう一度やってみよう」

「だいじょうぶだよ」

とちいさな自分に言えるのか。

 

 

自分を人生を大切にしようとすると、

つい求めることに必死になって、自分に厳しくなっていく。できない自分を責める。

 

 

そんなときは、

自分が自分の親になったかのように、ちいさな自分に声をかけてみよう。

やっていることが愛おしく、

まとはずれな失敗も可愛らしい。

生きているだけで、なんか満たされているのだ、と気づく。

 

 

 

 

人間はいろんな層をまとっている、と私は信じている。

自分の目線をいろいろ設定できると想うのだ。

 

こどものわたしに、なんと声をかけようか。

 

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