風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

自分にスパイスをふりかける

こんな記事を目にした

kogusoku.com

 

 

ほーー。

 

まず想ったのは、

このおとうさんは、自分の人生でよっぽど後悔したことがあるのかな、ということ。

 

”ここから人生は変えられない”ってえらいパワーワードだなぁ。

 

おとうさんはどうしたかったのか

娘にどうしてほしいんだろうか

 

おとうさんのプランから外れる時がいつか訪れるだろうが、その時おとうさんはどう反応するんだろうか

 

なんだかこのおとうさんが心配になってしまった

 

 

 

10代の頃に勉強するのも、好きなことならやればいいと想う。

勉強すきな子だっているし、運動好きな子もいる。

 

遊ぶのは断然やっておいた方がいいと想うけどなぁ。

大人になって想うのは、

初対面の人と話すのに、好きなことや時間があるときに何をしてるか?とか話せることことがコミュニケーションをとる上で大切になってくること。

学歴やテストの結果は、コミュニケーションを膨らませることは難しい。

アニメの話とか、好きなアイドルとか、撮り鉄とか、ポケモンGOとか、なんでもいいけど、

 

「おれはこれが好きなんじゃー!」

 

とげらげらって言えるものがあるって、

自分にスパイスをみにつけるようなこと。

 

なにもないな・・・となると、相手からは無味無臭でひっかかりがない。

 

 

 

うつのような状態になっている時に知らない人と話す機会があった。

普段なにしてるのか?何がすきか?と聞かれ、

いや・・・寝てるだけだし

好きとか・・趣味とか・・・特にないです・・・

 

となった時、会話がぶつぎれた感覚があったのを憶えている。

(話すのが嫌ではなく、何をどう話せばいいのか分からなかった。話が終わってしまって哀しかった)

 

 

 

コミュニケーションはぶつかりげいこ。

たくさんぶつかれるならこどものときから、当たって泣いてすねたり怒ったり、たくさんしておくといいなぁっておもう。

 

おとなと呼ばれるようになってからも、たくさんひととぶつかり失敗をする。

なんども何度もそれを繰り返した間に気持ちが通いあう瞬間が現れる。

 

 

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わたしは予定のレールからはずれまくっている。

両親の予想からは外れていったと想う

でも責任者はわたし、両親じゃない

わたしが後悔と想っていないなら、それでいいのだ

わたしが後悔しても別にいいのだ、わたしの人生なのだから

 

 

すきなことをすきなように生きてしまおう。

後悔してもいいと割り切ってやってしまおう。

死んでからしか全部の景色は見えないのだ。