風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

equality

週末が近くなると、目が不調になる。

緊張がほどけてくるからだろうか、それとも乾燥してるからだろうか

 

ニュースでノーベル賞受賞者の小柴さんが亡くなったニュースがやっていた。わたしも言葉だけは覚えていた「カミオカンデ」。なんだか語呂がリズミカルだなぁと想った記憶がある。色々な記事を読むと、学生たちにはとても厳しかった一方で若手研究者への支援も行っていた方だとのこと。研究は長い道のりだろうから、小柴先生の10年前の支援から今花開いている研究者もいるだろうな。

 

今年はたくさんの訃報を耳にした。そのたびにこころがきゅっと縮むことも多かったきがする。

そんなとき、最後に想うことは、

 

みんな平等に死ぬんだな   ということだ。

 

世界を賑わせているガツガツした政治家も、生まれてまもない赤ちゃんも、慈善活動をしているひとも、高齢者施設で暮らすおばあちゃんも、

 

今、総じて生きているひとは死ぬ。

必ずいつかはここから旅立つ。

 

明日なのか、1か月後、1年後、10年後は分からないけれど、

100年以上経てば、おそらくわたしはここにはいない。

わたしの肉体はなくなっていると想う。

 

みんなこの世に生きてきて、いつかは死ぬという、仲間なのかもしれない。

それ以外のところは、わたしがわたしであるということを表現している期間に過ぎない。

 

ほんとは仲間なんだなぁ、なんて思うと、

憎む気持ちもちょっと下ろしておこうかな、なんて思う。

そんなに憎まなくても、いつかその人はいなくなる。

 

怒りに時間を使うより、別の視点で意識を転がしてみるし、別のことで忙しくしてる方が楽しい。

 

だいすきなあのひとも、

にくったらしいあのひとも、

みんなおなじ

 

今生きてて、いつか死ぬ

 

誰かから生まれて、体を失って土になる

 

日々の怒りやら恨みつらみは出てくるけれど(短気だから)、

かみさまからの目線で見つめてみると、

 

にくったらしいオジサンもかわいい存在になっちゃうのだ!

 

悲惨なニュースをみて、哀しくならないわけではなく、怒りがでてくることももちろんあるけれど、

かみさまの視点とわたしの個人のちいさな視点をいったりきたりして遊んでいたい。

 

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