風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

みんなそれぞれの感覚で

な、なんと1週間ブログが続いている…

三日坊主の奇跡だ!自分で言っちゃうぐらい、結構な驚きだ。

いつ止まるかは分からないが、今日も書く。

 

姉と夕飯を作りながら話す時間が好きだ。

手を動かしながら、あれやこれやとくだらない話をする。

 

話は姉の好きなバンドについて。

好きだと知ってから何年か経つが、わたしは彼らの音楽がなかなか苦手で。

頭やら耳やらにキーーン、と来るのだ。

演奏技術はそれぞれにすごいとも思うけれども、でもしんどくて聞いてられない

聞いていると、勝手にのどや肩に力が入ってぐったりする。

でもそれはその音がダメだというより、

ただ単にわたしのここちよさにはまっていないということなんだろう

 

そういうことって、大っぴらに口に出したりしてないけど、実はちょっと気になる…とか、正直苦手だ…とかみんなそれぞれあるのではないかと思う。

 

わたしは「銀色」が苦手。

聞いた相手は「は?」ってなると思うが、子供の頃から銀のサッシを直視できなかった。日にもよるけれど、眩しくて痛い。

哀しいことに、学校にはそこら中に銀のサッシがある。そうすると、がんばって目線を銀のサッシからそらさなければならず、そこに神経を使い、非常に疲れる学校生活だった。

みんなもきっと見ると辛いんだろうな、と思っていたけれど、右隣りも左隣りも、黒板の角のサッシをまったく気にしていないことにだんだん気づいていた。

違和感があるけれど、先生や親にうまく説明もできないので、ずっと心の中にしまっていたが、サッシからずっと解放されたいと思っていたなぁ。

今思えば視覚の過敏のひとつだったのだけど、わたしが小さいころはまだ感覚過敏の情報は少なかったようだ。

 

姉に銀色が苦手だ、というと、姉は皮膚の感覚が過敏だといい、わたしも「知ってるよ」と返した。

服の繊維をとても気にする姉は試着は一瞬着ただけでは皮膚にあたる感じが分からない。といい、買い物に行くと、ひたすら布をなでくりまわしている。

皮膚の感覚に対しての厳しさといったらない。タグなんてもってのほか、繊維でかゆくなった時の姉は、威嚇する猫のようにシャーシャー言っている(ちょっとおもしろい光景)

 

 

みんなそれぞれの感覚を持っている。

感覚って言葉で説明するよりも、もっともっと繊細なものなのかもしれない。

今はHSPなども出てきているけれど、

たぶんそれ以上に、言葉に表さずともみんなそれぞれの感覚を持って生きている。

姉の感覚は様子を見ていて、快や不快は判断できる。

でも姉の感覚をそのままわたしが感じることはない。

姉は姉の感じ方で、

わたしはわたしの感じ方で、

それぞれ生きているのだと思う。

 

みんなそれぞれ違う、と思っていることで、

より丁寧に伝えようとか、せかいにどうにか伝えようと、たくさんの表現が生まれてきた。

感覚がばらばらなことに気づいたら、

せかいはもっともっと表す手を止めないのだろう

 

わたしはわたしの感覚を

あなたはあなたの感覚を

存分に味わいましょう 

 

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