風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

おとなの豊かさ

 

 

大人になった時・・・おとなになって・・・るのかなぁ。

定めされた年齢はとっくに越しているけれど、自分で「大人になった」と実感できたことがあまりない。

ある日突然に「おとな」になることはないような気がしている。年を重ねるごとに経験も増えた。色々なところへ足を延ばすようになり、自分でほしいものを買うということもしている。でも、それって「おとな」の認定がおりる条件みたいなものなんだろうか。

 

「おとな」って幅が増えることなのかもしれない。生まれてからずっと延長線上に人生を生きてきて、その中でいろんな自分が生み出されていく。出逢うひとや行った場所で、新しい自分が育っていく。場面ごとに違う顔も見せるだろう。兄弟の顔、子の顔、孫の顔、生徒の顔、友人の顔、恋人の顔、仲間の顔、知らないひとに挨拶するときの顔・・・いいのか悪いのかは分からないけれど、そうやって場面や周りのひとによって少しずつ自分の皮膚が育っていくような感覚。

それが時に自身を傷つけたり苦しめる時もあるかもしれないけれど、そうやっていろんな顔があること、わたしは自然なのかもしれないなと想う。

短気でがめついわたしも職場でその部分を出してはいない。明朗で軽やかな部分が表面に出てくる。その方が自分にとって心地よく動けるからだ。

嘘をついているわけではなく、それを選択する。

 

選択肢があるということを知っているのは豊かなことだなと想う。

そういう意味でおとなは豊かなひとが多いのかもしれない。

 

 

年を重ねても、昔から変わらずある自分の特性が見えると、「いつまで経ってもこどもだな」と想う。そう、年を重ねても変わっていかない部分は変わらない。皮膚の内側の皮下組織みたいなものなんだろうな。

 

 

今のわたしはとってもこどもで、でもおとなの顔も持っています。

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