風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

活かし方

不器用だと思う。

自分のことだ。

 

手先が器用でないと気づいたのは小学校低学年の時。

校内のお祭りで手作りの法被を作り、お腹のところで紐を結ぶ、その紐が結べなかった。

みんなできないだろうと思っていたら、クラスの半分がもうできる(まじかよ)

練習して出来る様になった子がどんどん隣のクラスへと移動し…そのまま紐を持ったままぽつんとわたしともうひとりの子が残された。

紐を眺めている間にチャイムが鳴った。先生に紐を預かられて終了。

 

リボン結びができない子、になってしまった。

よく分からないけど、情けなく恥ずかしかった8歳のわたし。

 

あれから練習を続け、なんとなく違和感なくリボンも結べるようになった。

箸も持てるし、ハサミも使える。

 

 

 

しかし未だに細かい作業をやるかと思うと、勝手に手が震える。知らない人の前で手作業をやるのは正直つらい。

 

そんな風でもよかったことがある。

不器用な自分は人一倍の練習と工夫が必要だった。

不器用な人の悔しさや落ち込む様子を見ると、心の奥に居る不器用でなきべその自分がちらちらと浮かぶ。

彼も彼女も、わたしと同じ。

 

だからこそやり方を変えてみたり、たくさん練習すればいい。

うまくいかない分、できるようになることは飛び跳ねたくなるぐらい嬉しい。

そんな気持ちになるのは、この不器用さがあってこそなんだなぁ。

 

自分の材料を活かす方法がきっとそれぞれに割り当てられているのだと想う。

不器用を抱えたまま、不器用さを使って

生きていく

 

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