風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

掃除をしていたら2009年の新聞が出てきて、ふと読んでみると、

当たり前だけれど、コロナのコの字もどこにもない。

とても不思議な感覚になった。

 

10年後とかに今日の新聞を読んだら、「あんときは大変だったねぇ」って口にすることになるんだろうか。

 

そのとき、わたしはどこで何をしているんだろう

 

 

 

何が正しいとか、間違っているとか、わたしたちはなんにも知らないんだなと思う。このコロナで今までの生活様式も変わり、当たり前を当たり前と呼ばなくなり、常識は崩れていく。

どうしたらいいのか分からない。どちらへ進めばいいのかが不確かだ。そんなときにひとは不安になるのだな。

 

何をどう選択するか、どう行動するか、それがどう影響して、どう連鎖していったのか、ぜんぶぜんぶ、最後のさいごまで分からない。わたしたちは人生の本番中にいて、いのちのリハーサルはない。生まれてから死ぬまでが見どころで、目を離す瞬間はなく、ジェットコースターのように上がったり下がったりしながら、線の上に立って居るのだ。

 

 

正解や完璧を求めている間にあっという間に旅は終わってしまいそうだ。そんなことより踊ってしまおう。こけたら笑ってしまおう。泣いた自分を抱きしめて、怒りを吐き出して、疲れたらごろんと寝転がって、走りたくなったら地面を蹴り上げよう。

 

 

 

ハハが旅立った時、彼女は泣いていた。

小さな涙の線がすーーと流れていった。

ことばはひとこともなかったけれど、最期に表した感情だったのかなと思う。

あのとき、何が見えた?

何が聴こえた?

どんな風に感じた?

 

 

いつか、逢った時に聴いてみたい

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