風の停留所

母の看取りをきっかけに意識や生と死について探究しています。内側に湧いたものを表現する練習中です。

変化するいきもの

にんげんって変わらないものだと想っていた。

 

がんこ、とか

気が弱い、とか

あわてんぼう、とか

 

そういうのって生まれ持った性質みたいなもんで、しょうがないもんなんだよな、って

 

わたしは緊張しいだった。

新しい場所や人に逢うと、顔がこわばって歯がカタカタ言い始める。

馴染むのも時間をかかるから、学校でもぽつんとしていることも多かった。

 

と、自分自身を思っていたのだが、

 

本日、

「え、全然緊張してるように見えなかった」

と言われたのだ!

 

かちんこちんでロボットのような動きだったのでは?

不信に思われたのでは?

やりづらい相手と思われたのでは?

 

緊張して、肩こりで朝起き上がれないくらいだったし、それでいて夜は不安でなかなか寝れなかったけど、はたから見たら全然そんな風に見えなかったそうだ。

 

自分の思っている自身のイメージと他者の印象ってなかなかギャップがあるものなのだろう。自分が想っている方こそ、固定観念のかたまりなのかもしれない。

以外とそんなことなかったりもするのだ。今まで自分自身で呪いをかけていたのかもしれない。

 

緊張しい、だとイメージしている自分をこっそり応援してみたら、

あら、なんだか大きい声出してなかなかやってるじゃんか。

ちょっとほっぺの筋肉もほぐれてきてるやないか。マスクの上でも笑えてるのが分かるぞ。よしよし。

 

あかちゃんのような足取りでよたよたがんばっている自分よ。

がんばってんだなァ。

と、目を細めるばあちゃんのようになり、私はコンビニスイーツを奮発したのだった。

 

 

慣れという力に助けられた部分も大きいのだろう。

人はかかる時間はそれぞれだが、慣れる生き物である。

慣れる、という能力を持っているんだなぁ。

 

どうやら私は、緊張するということ、緊張する自分、に慣れてきたようだ。

 

人間は変化するいきもの

常に揺れ動く、不安定で弱くて、でも環境に慣れちゃう、そんないきもの

 

やりすぎると、崩れてしまうこともあるけれど、

ストレスと変化の境界線で、

自分という入れ物の変貌をずっと見てみたい。