存在がない時に「ある」
V.E.フランクルの「夜と霧」を完読した。図書館でもずっと貸し出し中だった本だった。何度かお話した方が、とにかく一度は読め人類、みたいなことを言っていた本をやっと手に取った。
去年からインプット欲が急上し、むさぼるように読んでいる。特に退職してからの半年間はコロナ自粛もあいまって、読書で日中の時間は過ぎていった。とにかくなにか、固まった考えをたくさん吸収していた時期だったな。今は就職したため読書の時間は激減。今日は休みなので、読み切ることができた。
こころに刺さったところのメモを取りながらゆっくりと文字の中を泳ぐ。
「夜と霧」とは、
オーストリアの精神科医のヴィクトールフランクルがドイツ強制収容所での体験とそれに伴った心の動きや人間の本質についてが綴られた名著。
(わたしはみすず書房の新版を読みました。)
そしてわたしは知り学んだのだった。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深く関わっているということを。愛する妻の「現存(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、いきてあることは、まったく問題外なのだ。
・・・
愛する妻が生きているのか死んでいるのかは分からなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに私の愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。
この言葉を読んだとき、ハハが浮かんだ。
フランクルは強制収容所に送り込まれ、妻とはその時に離れ離れになっている。敷地内の女性たちの集団の中から最愛の妻をなんとか見つけたいと願っていた夫。
人間的な生活が失われた抑圧の中で愛情への意識について書かれた箇所だ。
想像するに及ばないような状況の中で精神的な存在こそ愛だと、そう言えるなんて。
じぶんのいのちが生と死の狭間にいるような状況で愛するひとのことを想う力とは、どれほどのものなのだろう。
ハハは今、地球上には存在していない。
でも確かにいた。1年前まで生きていた。
肉体がない今、愛していないのか、というとそうではない。
肉体がなくても愛している、とはっきりと言える。
逆に言えば、肉体がなくても憎いものは憎く、羨ましいものは羨ましい。肉体がないからといって、その対象をなかったことにしなくてもいいのだ。
ハハの体はない。
でもハハはいる。わたしの中にいる。
チチの心のなかにもいる。姉や祖母のなかにも、ハハの友人のなかにも。
ありがたいことに肉体がないからか、ハハはみんな、ハハを好きな人のなかに居れるのだ。
愛とはなんだろう。はっきりとした理由などない。
家族だから愛しているわけでもない。
ただ深く想うとき、こころがきゅっとする。目の奥がじんわり沁みる。
あぁ、これが愛なのかも
愛は苦しい。淋しい。
この苦しみがあってよかった