哀しみの種類
季節は冬、なはずなのに、時代が夏に戻ったかのような暑さでした。
わたしが夕食を作っている間に天気予報を見ていて、食べながら「明日も暑いって」「来週から寒いよ」と報告してくれる祖母に感謝。天気予報、何回聞いても忘れちゃう。
着る服に困る毎朝6時半。
*
夕食を片付けて、あれこれを済まして、実家を出る。
ぱっとこちらを見たチチ目がさみしそうだった。
まるで小学生が一人でお留守番だと知った時のような顔。
空白の時間は、考え事がぐるぐるしてしまう時間のようだ。
ハハが居なくなってから、チチはよく泣いている。
1年という時間はまだ短いな。
じゃあ2年?5年?10年経ったら今のようではなくなるのだろうか。
わたしはわたしで哀しいし、さみしい。
チチが淋しいと感じているのも十二分に伝わってくる。
でもチチの哀しみをわたしがなんとかなくそうと想うことは、やめた。
わたしにはわたしの、
チチにはチチの、
それぞれのハハへの想いや、想い出や、重ねてきた時間があり、
全く違う目線でハハを見てきた。
それぞれ、哀しみも種類が違うのだ。
誰一人同じではないと想う。
亡くなってすぐは、
チチを支えることに頭がいっぱいいっぱいで
自分の心の中の声を聴くことをすっかり置いて走り続けた結果、
こてん、
と倒れ、
仕事や人間関係を手放してただただ休んだ。
自分の息を取り戻して、やっとチチの哀しみを依然と違った角度から見ることができるようになった。
以前は、哀しいオーラを前回で出すチチがしんどくて、一緒に居て辛くなってたなぁ。
顔をちゃんと見る前に、あぁ、その雰囲気出すの止めて…って祈っていた。おちゃらけれる限りおちゃらけてヘラヘラして話を変えた。
今は、この人は哀しいと感じてるんだな、と受け止める、だけ。
わたしはじぶんの想いに一番集中している。チチの心を動かそうとしない。
なんだか自分に集中しているほうが、気持ちに余白が生まれて、結果チチにやさしくできる気がする。
不思議なからくりだ。
*
今日は哀しい顔のチチを見てそのまま家を出た。
どこまでも哀しみは続くのか、薄まっていくのか、それはしあわせなことなのか。
ひとそれぞれの答えがあるんだろうな。
いつか今日を振り返ったら、どんな風に見えるのかな