自然が教えてくれる
先日、雨が降ってしまう前、桜を見に行きました。休日の朝早く。犬のお散歩している人や自転車の練習する親子が遠くの方にちらほら。
用水路沿いに桜が咲いている桜一本一本を見るのが楽しい。
もう葉っぱが出てきていたり、花びらは落ちていて、おしべとめしべがむき出しになっている。
鳥の鳴き声が聴こえてきたので目を向けると、どんと構えた大木の枝に2,3羽止まっていた。メジロかな?と思ったが、こんな街中にいるのはきっとスズメだろう。無理に近づいて移動させては嫌だし、視力が悪いので顔周りの色までは分からなかった。
鳥がちょっと動くだけで、花びらはどんどん落ちていった。風に舞って一枚ずつだったり、かたまりのままぽとっと床に落ちて行ったりする。
桜ってすごいなぁ、と想った。人間に「ここに居なさい」と植えられて、たくさんお世話を受けないと育たない繊細さがあって、鳥とか虫とかにも自分を使われていくことを当たり前のようにやってのけ、雨や雪が降ってもじぃーーーとその場で静かに居る。美しかろうがそうでなかろうが咲いては散り、また芽吹くを繰り返す。
全部静かに受け止めて、できる限りをして、生き続けている。
みんな植物はそうなんだけど、わたしにはできるのかと言ったら、できんなぁ。
もし生まれ変わった時に、
神さま?に「お前は次は桜だよ」って言われても泣いて無理ですと言いそうだ。
じっとしているの、苦手だしなぁ。
今世はにんげんなので、そのままじたばたしたわたしでいよう。
*
さりげなく、3月から名前を入れてみた。Medeluというで一見読みにくそうな名前。
愛でる・芽出るのメデル。イギリスの歌手アデルみたいなイントネーションで。
これから愛でていくものはなんだろな
✳︎
葉桜をたくさんみかけた。
葉桜って次のはじまりのような気がする。この緑色はエネルギーだな、と想う。
映画の予告か何かで「始まりは終わりの始まり」(うる覚え)というフレーズを聴いたけれど、終わりこそ始まり。終わったらこそ始まれるのかもしれない。花が落ちないと新芽はでてこない。
きっといのちが終わるとき、なにかが始まっていくのだろう
わたしの誠実
あたたかくなった。桜も風になびいて気持ちよさそうだ。
桜咲いてて空いてるところ、どこかあるかなぁ。
卒業、転勤や転職、引っ越しなど、次のステップへの変化の多い季節。オンラインでのコミュニケーションが増えてきた中、オフラインでの動きの仕方も色々変わってきているんだろうなぁ。
1年前の3月は、ちょうど退職をした時期だった。
それまで活動していたチームから人が抜け、下から数えた方が早かったわたしが部署をまとめる立場になってから、そんなに日は経っていなかったけど、
辞めるまでは長かったのか、短かったのか。どうだったかな。
小さな会社の中では、人間関係がとても露わになる。毎日部署で会議をして、それを上の役職と話し合うことを何か月か続けていた。
夜眠れない日が増えていき、これはよくない気がする…と思っていたところで、朝布団から起き上がれなった日があった。前日にはパニックで手が震えていた。
もう、だめ。ここにいてはいけない。
決断したのは、ハハが亡くなって、ごまかして生きるのはやめようと決めたことが背中を押したのかもしれない。
「こんな大変なときに、辞めるなんて」そうやって陰で言われていた気がする。
確かに「今辞めたら、人に迷惑をかける」という呪い(?)は、倒れるスレスレのわたしを何度もくい止めた。
でも対人援助の仕事をしている中で、自分がこんなにも弱弱しく、精神的に不衛生な状態なまま、利用者さんに接したくなかった。
それはわたしの中で不誠実なことだった。
「健康で楽しく過ごすことが一番だよ」いつもそう伝えていたのに、自分が一番程遠いなんて、そんなひとを信じられるだろうか?
そんな想いからわたしは職場を去った。
利用者さんはみんな大好きだったから、辞めてからも何度も思い出し、しあわせを祈った。
そして長い夏休み。と思ったらやってきたコロナ。
有休消化から半年以上、自宅で本を読む日々を過ごした。
ひとり旅もしづらい世の中になってしまった。
これよと機会に興味のある本を読んでいった。
お財布はぺらっぺらになったけれど、わたしが欲しかった時間だったし、必要な時間だったかなと想う。
離れてみて感じることも、違ったりそのまま変わらずだったりだ。
たった1年で状況も心境も変わるんだなぁ。
わたしが想っているよりも、1年というのは大きい。変わろうと思えばいくらでも変われるんだな。
来年の今頃、わたしはどこで何をしているのだろう?わたしはわたしに誠実でいるだろうか。
答え合わせは1年後。
ショック療法から
あんなにコツコツ書いていた自分はどこへ行ったのか。旅に出たのだろうか。
1週間ぶりの投稿である。
あれ?11月とか毎日当たり前のように書いてたよね?ブログ書くことに生きがい見い出した、くらい言ってたよね?こやつ、ネタ切れか。
心のなかで冷たい目線を送る自分がいます。実は自分の目線って他者の目線より厳しい。言い分の内側もまるっとみられてるんだなぁ。
今月から整体に通い始めた。身体の不調にいい加減向き合わないとなぁ、とやっと重い腰を上げた。後回しにしていたツケが来たのか、朝から晩までずっと肩こりが気になっていた。
痛くない、根本から治す!とホームページにでかでかと書いてある整体院にした。
わたしのはきっと筋金入りのコリだから、一から治さなければ変わらないと思ったから。
笑顔が派手な先生に挨拶後、色々調べてもらう。
唾液アミラーゼ検査でストレスチェックを行った。
唾液の中にある消化酵素のアミラーゼの量を測り、多ければ交感神経が刺激されておりストレス度が高い、ということだそうだ。
「はいこれくわえててねー」
(・・・え、これで何が分かんの・・・??)
頭の中に?が浮かびすぎていたのが作用していたのだろうか。
結果がでて先生は「あぁー」と苦笑いをしている。
「かなりストレス溜まってるね。」
測定値が30KU/Lがストレスがない、30-45がややストレスがある、40-60でストレスがある、61以上でストレスがかなりある、ということだが、私の結果は
150を超えていた。
・・・はい?
数字、まちがってねぇか???ギャグ?故障?ドッキリ???
思わずあははー、と笑ったけれど、ストレスの基にはなんとなく気づいていた、ずーーっと前から。数値にはショックだったけれど、ほんとは誰かにバシッと言われたかったのかもしれない。真正面から頭を叩かれないと、動かしている手足を止めらなくなっていたんだろう。
もちろん1回の数値でどれほどの正確性なのかは分からない。交感神経は直前に体を動かしたりすることでも上がるし、環境によっても変動する可能性がある。ただこの結果を見て、納得できたことは、現状に対して自分の本音を引き出すのに十分だったということだろう。
やさしくしなくて、ごめんね。
家に帰って気持ちが落ち着いてから少し涙がでた。
エネルギーを日々使って使いまくって、自分のことはおざなりだったんだなぁ。
そうしろと誰一人言ったわけではないのに、自分で自分を責めて鞭を打っていた。
決して器用ではなく体力もない中で、ザど根性でなんとかやってきた気がする。
からだはそれに疲れてきていたようだ。ずっと走りっぱなしだったもんなぁ。
わたしはわたしをたいせつにする、とそれだけ新たに決めた。
(何回か口にしている気がするのに、きづけば道がそれていくのは何故なのだろう・・・・)
甘やかすのでも怠けるでもなく、たいせつにするってどうしたらいいのだろう。
今できることは、栄養を取ること。自分の時間と空間を確保すること。自分を観察することの3つだろうか。
今できることを少しずつ。そんな風にやってみよう。
身体へ
天気は雨。朝からお隣さんがギターを弾いていた。壁が薄い安いアパートでは隣人の生活音がなんとなく聴こえてくる。
あんまり上手ではなさそうだが(失礼)、聴こえるとどこかほっとしたりもする。
どんな人なのかはほとんど知らないが。
*
今日と言う日があと1時間で終わる。特別なことをしたわけではない1日だ。
それでも31年間という中の1日。2021年3月21日を経験するのはこれが最初で最後。31歳を体験するのもこれが最後だ。
生活を続けていくと、毎日が同じようで、長い永い延長戦上にいるように感じることもあるけれど、
たぶん瞬間瞬間の点を繋いでいって、はじめていのちの線ができる。
特別なことをする必要もない。笑わなくてもいい。生産性がなくてもかまわない。
それでも生きた時間には変わりない。自分を生きてさえすれば。
今日も私の身体は動いた。
心臓は止まらなかったし、足は前に進もうとした。目はせかいを映していた。内臓は消化や吸収に忙しく精をだしている。骨や筋肉も支えてくれているので、現状、状態を保っている。
えらい。私の身体。
ずっと休みなく頑張ってる。睡眠がうまく取れなくなっていて、回復しずらいだろうに、ごめんよ。
ガンダムのモビルスーツみたいなものだろうか。今の自分が持っている身体はこれひとつだ。好きだろうが嫌いだろうが代えはない。
この身体はいつか終わりがくる。
それがいつなのかは分からないけれど、今日はいままで動き続けてきた身体を、触ってみる。
よしよし。
ペットをなでるように。
こどもをあやすように。
そっと今までの点を労わり、そして次の点を祈る。
そんな31年最後の日
追記**
このブログを書いたあと、Youtube開けたらCoocoがダンス上げてた。
かわいい。そしてやさしい。
「手当て」
ふふふのふ。
傷だらけのまま
昨年観た映画、ミッドナイトスワンが日本アカデミー賞最優秀作品賞になったようだ。
映画を見たのはもう4ヶ月も前なのに、すぐ映像が想いだされる程、こころの奥のすみっこまで届いた物語。
演技も音楽もストーリーも、ひとつひとつが繊細で苦しくて苦くて、愛おしい。
だいすきな作品。
それと、助演男優賞で、「罪の声」の宇野祥平さんも受賞していたようで、なんだか嬉しい。知らない背景まで見せるような演技だった。映像の中の総一郎をそぉっと抱きしめてあげたかった。役者というのは・・・すごい。
現実世界は、ひとと人の想いが交錯して、みんながむしゃらで、妬んだり恨んだり、むじゃきにげらげら笑ったりしながら、いのちを過ごしていく。
思うように事が進むことは少なく、自分の思うように人は動かず、願い事は必ずかなうわけではない。
それでもただひたすらに生きている。傷だらけのまま、生きている姿が、なぜ美しく見えるんだろう。なぜ胸を打つんだろう。
にんげんって弱いな。でもにんげんってかわいいな
ひとつひとつと毎日を重ねていくと、そう想う瞬間が増えてきた
やさしさと点
ひさびさの更新。
前回の投稿がちょっと重たい内容だったろうなと想いつつも読んでくれた方がいたことが驚きつつも嬉しくて小躍りした。
その気持ちのまま、書こうと張り切っていたけれど自分の体に阻まれる。
貧血でパソコンの前に座っていられない日が続いた。く、くやしーーー。
やっと治ったなと思ったら、慌てたのか人参ではなく自分の指を切る。
たかが皮膚。されど皮膚。痛さでひーひーいいながら日付が変わってしまう。あーあ・・・
からの今日。
久々すぎて、緊張している。
どうやって書くんだったかな、書いたの誰かが読んでくれるんかな、どれくらい時間使って書いてたっけ?などもくもくと不安ちゃんがでてくる。
不安になるほど、ブログという場所がたいせつになってたんだなぁ。
心配性のじぶんはおもしろい。こっけいで。
*
元気になってきたので読書欲がむくむくして、買いだめしていた本に手を伸ばした。
今日の本は「6畳間のピアノマン」
先日NHKでやっていたドラマにくぎづけになった。
わたしが視たのは全4話のうちの3話と4話だったけれど、なんというかひきつけれたなぁ。
4話を見終わったその足で本屋へ直行し原作本を買った。
ドラマは原作と違う部分もあったけれど、どちらもじんわりとこころで拡がるものがある、そんなものがたりだった。
ものがたりにでてくるひとはみんなそれぞれの後悔を抱えて生きている。
ひとつの出来事に対して、時が経っても、自分がああしていれば…という想いを持ったまま自分の人生を生きていく。
ドラマの中で、6畳間のピアノマンの”Piano man” の演奏が素晴らしくて、その反動に切なさが押し寄せる。
「優しさは弱さなのでしょうか」
彼は息子を想いだしながら問うているのだろう。だが警察官としての在り方にも繋がる問いに、私は口ごもった。優しいだけの警察官は、弱いとみなされる嫌いがある。だが、一般の人に限って言えば、優しいだけの人間は本当に弱い人間なのだろうか。
・・・
「優しさだけでは生きていけない。他人を蹴落としてでも勝ち残れ。やられたらやり返せ。小さな頃から、そう教えていればよかったのかもしれません。」
優しさだけでは生きていけない。それもまた確かだ。だが、全てではない。
「少なくとも、優しさと弱さは別物だと思います。ええ、違いますよ」
遺されたひとの淋しさ。苦しさ。居なくなったひとが本当はどう感じていたかは分かることはない。だからこそ、ひとはもっとこうしていれば…と感じるのだろうな。
答えはずっと分からない。だから生きるしかない。生きるしか。
「お前もある意味、無敵になろうと肩肘を張っていないか」
「ぼくは誰とも、何とも戦わない。なぜなら、はなっから関わらないからだ」
「それは結局、無敵になりたいからじゃないのか。向かうところ敵なし」
「違う」
「いや、違わないよ。誰とも関わらなければ確かに敵は生まれない」
誰とも関わらない人生は、楽しいか。大友の歯に衣を着せぬ物言いに、僕は怯んだ。
わたしは一つの場所に留まってそこで人間関係を創っていくことがどちらかというと苦手だ。人の感情にひっぱられてそこで体力を失って呼吸の仕方を忘れてしまう。でも一方で人に逢ってみたい、いろんな人を知りたいとも想う波もある。
人と関わらず生きることも、やろうとすればできるのだろう。でもそれが本当にしたいのかと言われたら、違うような気もする。誰かと衝突したり傷つくことが大嫌いだ。誰かが哀しんでいる顔も見る瞬間が辛い。哀しい想いはしたくない。だけど、誰かとつながった時の嬉しさを、心のどこかで楽しみにしている自分がいる。
ものがたりの中で、ひとりの男と彼の周りのひとたちが、気づかないうちに影響を受け合って、人生を歩んでいく姿が描かれている。
ひとって、自分が意識しているよりも、もっともっと拡く深く、他者と関わっているのだろう。
わたしがこうしてブログを書くことも、またひとつ、世界の小さな点なのだ。
ビールのシーンがとっても、いい。読めてよかった
愛しきうんこ
夜。そとの風の音に度々びくついて過ごしている。
明日は寒くなりそう。また目覚ましと布団の中で闘うのかな・・・こりゃあ。
*
今日はトイレの話です。苦手な方はすみませぬ。読んでから不快になる前にUターンしてください。
*
亡くなる前、ハハは体がうまく動かせなくて、わたしたち家族が色々身の回りのことをすることが増えた。
訪問看護さんが来てくださっていたけれど、気遣いの人って、たとえ病気の中でも気を使ってしまうのだ。元気な看護師さんに合わせてテンションを挙げて話して、あとで疲れ果てている場面を何度もみた。家族だからといって自分のことを手伝ってもらうということが全部おまかせできるといったら、それは違うとも思うけれど。
自力でこれまで色々がんばってきたからこそ、”委ねる”ということに対して、体に力が入ってしまうのかもしれない。そういえば「もっと楽にと言われても、力の抜き方がよく分からない」とよく言っていたな。
ある日、彼女はトイレが間に合わなかった。数メートルの距離が間に合わなかった。
「ごめんね…」そういうハハは哀しい目をしていた。
もしかしたら、間に合わなかったことよりも、汚してしまったものをひとに片付けてもらうことの辛さがあったのかもしれない。
でもわたしはなぜだろう、頭に浮かんできたのは、
「こうやって、わたしが生まれてからやってくれてたんだよな。お返しを今してるのかぁ」
とじわじわ想っていて、自分でも驚きだけど、
嬉しかった。
ついでにいうと排泄物も全然汚いとも思わなかった。
「かわいいな、よしよし片付けてあげるからな」とその時は本気で想っていた。
それは親になった人がわが子のうんちを「かわいい」と愛情を通して言うのと同じようなものなのだろうか。今だによく分からない。
そのような片付ける場面が増える前に旅立っていったので、それが何か月、何年と増えるとまた違う感覚になるのかもしれないけれど。
「よくぞ出たぞ!えらい!」わたしは片付けながら排泄物に声をかけていた。
弱っていく体のハハから出たものなら、排泄物でも嬉しい。
生きている証拠。よくがんばってる。
掃除しながらちょっと涙目になった。
亡くなる数日前のことだった。
あれからトイレに入るとふいに想いだす。
排泄物がでるってほんとに奇跡のよう。今日も出た、かみさまありがとう。
生きていることを実感する瞬間のひとつだ。
この身体が存在しないと食べるということはできないし、この身体が存在しないと排泄することはない。至極当たり前のことなのですが、それは大きな奇跡だなとトイレットペーパーを握りながらぼんやり考えてたりしています。
下痢になっても便秘に悩んでも、わたしはそれに悩むことができるこの身体の存在にいまだに感動し続けています。
トイレに入った時に考えることのお話し、終わり。