太陽のボブ
ふと思い出して動画を検索してみたらあった。
昔放送していた、「ボブの絵画教室」
こどものころ、ほとんどテレビはアニメしか見ていなかったけど、この番組はなんだか好きだった。
油絵が何たるかは全く知らないぐらいの年齢だったけれど、こどものわたしにもよく分かった。
このアフロのおじさんがとっても楽しそうだということが。
ボブロスはアメリカの画家。この番組はアメリカ、日本だけでなく、メキシコや韓国、ヨーロッパ諸国でも色々と放送されていたそうだ。
ボブは軽妙な解説で筆をリズミカルに動かす。するとぼやーっとしていたものからあっという間に形が浮き出てくるのだ。
見ている間に絵がどんどん形を変えていくのが、とても面白かった。
あっという間に山や木々が浮かび上がってくるのは魔法みたい。
「ね、簡単でしょ!」と5分に1回ぐらいの口癖のボブ。
あんまり軽やかに筆を動かしているので自分でもできそうな気がしてくる。いや、なかなか実際はできないのだけど。
それにしてもずっとしゃべりながら筆を止めずに描くのってがどうなってるんだ。
30分という超コンパクトな時間で描いていると思えないし、頭の中に描きたい景色が浮かんでないとなかなかできないだろう。ボブの頭のなかが視たい。
視聴していたこどものころは、ボブの持っている顔よりも何倍も大きなパレットが欲しかった。あれがあれば絵が描けると想っていた気がする。
兎にも角にも描いているときのボブはとても生き生きしている。
わくわくした気持ちは画面ごしでも飛んできた。
わくわくしているひとのエネルギーって強い。
太陽みたいだ。
そんなひとを見るのが、わたしは好きだ
なんだか嬉しいのだ。
きっと、いのちを正面から見ているような気持ちになるからなんだろう。
自分はどうだろうか。
あんな風にキラキラしているのだろうか。
どんなものでもいい、自分がワクワクする方を選ぶこと。
誰よりもまず自分の心が動いていること。
アンテナの受信に敏感になっていたい。
太陽のボブ
ふと思い出して動画を検索してみたらあった。
昔放送していた、「ボブの絵画教室」
こどものころ、ほとんどテレビはアニメしか見ていなかったけど、この番組はなんだか好きだった。
油絵が何たるかは全く知らないぐらいの年齢だったけれど、こどものわたしにもよく分かった。
このアフロのおじさんがとっても楽しそうだということが。
ボブロスはアメリカの画家。この番組はアメリカ、日本だけでなく、メキシコや韓国、ヨーロッパ諸国でも色々と放送されていたそうだ。
ボブは軽妙な解説で筆をリズミカルに動かす。するとぼやーっとしていたものからあっという間に形が浮き出てくるのだ。
見ている間に絵がどんどん形を変えていくのが、とても面白かった。
あっという間に山や木々が浮かび上がってくるのは魔法みたい。
「ね、簡単でしょ!」と5分に1回ぐらいの口癖のボブ。
あんまり軽やかに筆を動かしているので自分でもできそうな気がしてくる。いや、なかなか実際はできないのだけど。
それにしてもずっとしゃべりながら筆を止めずに描くのってがどうなってるんだ。
30分という超コンパクトな時間で描いていると思えないし、頭の中に描きたい景色が浮かんでないとなかなかできないだろう。ボブの頭のなかが視たい。
視聴していたこどものころは、ボブの持っている顔よりも何倍も大きなパレットが欲しかった。あれがあれば絵が描けると想っていた気がする。
兎にも角にも描いているときのボブはとても生き生きしている。
わくわくした気持ちは画面ごしでも飛んできた。
わくわくしているひとのエネルギーって強い。
太陽みたいだ。
そんなひとを見るのが、わたしは好きだ
なんだか嬉しいのだ。
きっと、いのちを正面から見ているような気持ちになるからなんだろう。
自分はどうだろうか。
あんな風にキラキラしているのだろうか。
どんなものでもいい、自分がワクワクする方を選ぶこと。
誰よりもまず自分の心が動いていること。
アンテナの受信に敏感になっていたい。
決める練習
わたしたちは日々決断を迫られている。
何時に起きる
どこへ行く
何を食べる
何をする
何をしない
何を得る
何を手放す
時に意識しながら、時に無意識の中でいろんなものから一つを選ぶ。
今日履く靴下から、食べるお昼ご飯、連絡する相手も、伝える言葉も。
選択肢は実はたくさんあって、その中でたったひとつを選ぶ。
わたしは優柔不断だ、と想う。いや、想っていた。
今引っ越し先を夜な夜な検索しているが、なかなか進まない。
田舎町とはいえども、いくらもあるものの中から、これだとひとつ選ばなければいけない。
当たり前だ。2つも3つも選べないし、どれかを選ばないと、使うことはできない。
調べながら、自問自答を続ける。自分が大切にしたいことは何か、譲れないことはなんなのか。
最終的にはひとつ選ぶ。決断をする。
決断するときに必要なのは、決めてしまうということだと思う。
・・・当たり前だ。当たり前のことだけど、こころのなかで、「よし、これでいく!」と宣言してしまうことって結構大切なような気がしている。
決断するのは時に怖い。わたしはビビりマンなので、「決め・・・やっぱちょっと待って!」みたいなことがよくある。
勇気を使って震えながら決めてしまう。
どきどきしながらも決断する。
毎日まいにちその連続。この世界から旅立つ頃には少し慣れるのだろうか。
選ぶという自由は、怯えながらも進む自分を認めるということ
thinking
フランスの哲学者サルトルの名言に、
”My thought is me: that's why I cannot stop thinking. I exist because I cannot keep from thinking."
(思考こそ私である。なので思考することを止めることはできない。思考することから逃れられないゆえに、わたしは存在する。)
とあります。
これを始めて目にしたとき、ほー!分かるような分からないような・・・と頭がぐるぐるしましたが、とても印象に残った言葉でした。
自分の性質を分析してみると、
思考することをとても重要視していることに気づきました。
考えることが好きというより、そこに対しての欲がある。
いろんな角度から見てみたい。
いろんな話を聴いてみたい。
本質がどれなのが吟味したい。
ひとつのことについて、粘っこくしつこく考える、そういう性質が自分にはあるようです。
それゆえ瞬発力はなく、即答するのも苦手。
でも本質か本質でないかのセンサーは日々の鍛錬で感度を挙げてきているので、
「あ、このひと思ってることと言ってることに誤差がある気がする」とか
「言葉に力が入ってないな」とか、すぐに反応します。
これはもう勝手に脳が働いている機能で、自分の言葉に対しても厳しく精査しています。「今嘘を口にしたな」とか。それゆえ自分自身が傷つくこともあります。
ずっとこの”考えすぎる”自分が嫌だなと思ってきました。
どうみても、重い・ネガティブ・付き合いづらいやつ に見えるだろうって。
でも方向性を変えてみました。
わたしのこの止まらない思考はわたしの特技にしてしまおうと。
重たい、しつこいなんのその。
ネガティブもポジティブも関係なく、一から100まで考える。
そういう人間なんだから、それをやりきってしまおう。
自分を無理に設定変更しなくてもいい。そのままいっちまおう。
深く深く考えることは習性として、それを表現していきたい!というのが今の想いです。
思いはぐつぐつと沸き立っているのに、なかなか言葉が見つからない!
ブログで自分を出す練習はまだまだ続きます・・・
その不器用さが愛おしい
自分のことを不器用だな、と想いますか?
わたしはしょっちゅう想います。あー、やっちまった。うげ、これ忘れてた。あぁ、また人を傷つけちゃった。なんでダメだとわかっててそれやった?などなど、日々落ち込みのオンパレードです。忘れっぽいし、注意力も散漫。こころのなかで、このくそ野郎!と叱咤する自分がいつもいます。
今関わっている人は障害の診断を受けた人たち。それぞれに特性があって、ペースがゆっくりだったり早かったり、こだわりがあったりする人たちが多いです。
そんな人たちと日々一緒にいると、毎日バタバタしたりげらげら笑えたり焦ったり怒ったり、まぁ同じような日、というのはなかなかありません。
合う人もいればあんまり合わない人ももちろんいる。それは障害とかに関係ないのかもなぁ。
わたしもでこぼこした特性を持っていて、
隣に座るひとも違うでこぼこを持っている。
その”でこぼこ”を一緒に笑っていられるひともいれば、
”でこぼこ”を快の方に感じられないひともいる。
それはどんなひとに対しても一緒。
「その”でこ”はわたしには合わないんだけどあなたのその”ぼこ”はなんか好きなんだよねー」
なんていう場合も結構ある。
みんなどこかしら不器用で、がたがたしてて、弱くて強い。
生きていくということは、誰かのでこぼこに出逢うこと。
生きていくということは、わたしのでこぼこを持って歩むということ。
合わなくても、だいじょうぶ。
すごーく探せば小さいけれどぴったりあうでこぼこがきっとある。
もし見つけれなかったら、
笑顔でまたねと言って離れればいい。
不器用なひとばかりのこの星で、
明日は誰に出逢うのだろう
Failing forward
Failing forward-前向きな失敗。
留学先でのインターン中に、アドバイザーからもらった言葉。緊張やらネガティブ思考やらでぐじぐじと落ち込んでいたわたしに、アドバイザーが付箋に書いて机に貼ってくれていた。
前向きな失敗。
そう、失敗することだって前向き。次への一歩。
わたしはあわてんぼうでうっかりミスも多く、過集中したり、脳の情報処理がうまくできず全く集中できていなかったり、日々濃い一日を過ごしている。
大抵の人はそうかもしれないが、失敗するのは好きではない。とても落ち込む。頭でわかっていてもなんだか気が落ちてしまう。
そんなときはこの言葉を思い出す。
直訳すれば次に前向きな失敗」だけれど、あの時アドバイザーが伝えてくれていたのは、
「あなたなら次きっとだいじょうぶ。」という背中を押す言葉だった。
何が失敗で何が成功なのか。
すべて、今日のすべてが明日につながっている。
過去はただの出来事。
そして未来はこれから耕す世界。
未来は過去という土から生まれる。
落ち込んでも、泣いても、笑っても、腹をたてても、
そのまま、進め。
存在がない時に「ある」
V.E.フランクルの「夜と霧」を完読した。図書館でもずっと貸し出し中だった本だった。何度かお話した方が、とにかく一度は読め人類、みたいなことを言っていた本をやっと手に取った。
去年からインプット欲が急上し、むさぼるように読んでいる。特に退職してからの半年間はコロナ自粛もあいまって、読書で日中の時間は過ぎていった。とにかくなにか、固まった考えをたくさん吸収していた時期だったな。今は就職したため読書の時間は激減。今日は休みなので、読み切ることができた。
こころに刺さったところのメモを取りながらゆっくりと文字の中を泳ぐ。
「夜と霧」とは、
オーストリアの精神科医のヴィクトールフランクルがドイツ強制収容所での体験とそれに伴った心の動きや人間の本質についてが綴られた名著。
(わたしはみすず書房の新版を読みました。)
そしてわたしは知り学んだのだった。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深く関わっているということを。愛する妻の「現存(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、いきてあることは、まったく問題外なのだ。
・・・
愛する妻が生きているのか死んでいるのかは分からなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに私の愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。
この言葉を読んだとき、ハハが浮かんだ。
フランクルは強制収容所に送り込まれ、妻とはその時に離れ離れになっている。敷地内の女性たちの集団の中から最愛の妻をなんとか見つけたいと願っていた夫。
人間的な生活が失われた抑圧の中で愛情への意識について書かれた箇所だ。
想像するに及ばないような状況の中で精神的な存在こそ愛だと、そう言えるなんて。
じぶんのいのちが生と死の狭間にいるような状況で愛するひとのことを想う力とは、どれほどのものなのだろう。
ハハは今、地球上には存在していない。
でも確かにいた。1年前まで生きていた。
肉体がない今、愛していないのか、というとそうではない。
肉体がなくても愛している、とはっきりと言える。
逆に言えば、肉体がなくても憎いものは憎く、羨ましいものは羨ましい。肉体がないからといって、その対象をなかったことにしなくてもいいのだ。
ハハの体はない。
でもハハはいる。わたしの中にいる。
チチの心のなかにもいる。姉や祖母のなかにも、ハハの友人のなかにも。
ありがたいことに肉体がないからか、ハハはみんな、ハハを好きな人のなかに居れるのだ。
愛とはなんだろう。はっきりとした理由などない。
家族だから愛しているわけでもない。
ただ深く想うとき、こころがきゅっとする。目の奥がじんわり沁みる。
あぁ、これが愛なのかも
愛は苦しい。淋しい。
この苦しみがあってよかった